一転して、丁度持て来た茶碗蒸しを箸《はし》で掘り返し始めた。
この時|黒羽二重《くろはぶたえ》の五所紋《いつつもん》の羽織を着流した、ひどくにやけた男が、金鎖の前に来て杯を貰っている。二十代の驚くべく垢《あか》の抜けた男で、物を言う度に、薄化粧をしているらしい頬に、竪《たて》に三本ばかり深い皺が寄る。その物を言う声が、なんとも言えない、不自然な、きいきい云うような声である。Voix de fausset《ヴォア ド フォオセエ》である。
左の手を畳に衝いて受けた杯に、おちゃらが酌をすると、「憚様《はばかりさま》」と挨拶をする。香油に光る髪が一握程、狭い額に垂れ掛かっている。
金鎖がこんな事を云う。「こないだは内の子供等が有楽座へ見に行って、帰ってから君のお噂《うわさ》をしていましたよ。大相《たいそう》面白かったそうで」
「いえ未熟千万でございまして。しかしどうぞ御閑暇《ごかんか》の節に一度御見物を願いたいものでございます」
純一は曽根の話に、新俳優が来ていると云ったことを思い出した。そして御苦労にもこの俳優の為めに前途を気遣った。俳優は種々な人物に扮《ふん》して、それぞれ自然らしい科白《かはく》をしなくてはならない。それが自分に扮しているだけで、すでにあんな不自然に陥っている。あのまま青年俳優の役で舞台に出たら、どうだろう。どうしても真面目な劇にはならない。Facetie[#一つ目の「e」は「´」付き]《ファセエチイ》である。俄《にわか》である。先ずあの声はどうしたのだろう。あの男だって、決して生れながらにあんな声が出るのではあるまい。わざわざ好《い》い声をしようと思って、あんな声を出して、それが第二の天賦になったのだろう。譬《たと》えば子供が好《い》い子をしろと云われて、醜いgrimace《グリマス》を見せるようなものだろう。気の毒な事だと思った。
こう思うと同時に、純一はおちゃらがこの俳優に対して、どんな態度に出るかを観察することを怠らない。
社会のあらゆる方面は、相接触する機会のある度に、容赦なく純一のillusion《イリュウジョン》を打破してくれる。殊に東京に出てからは、どの階級にもせよ、少し社会の水面に頭を出して泳いでいる人間を見る毎に、もはや純一はその人が趣味を有しているなんぞとは予期していない。そこで芸者が趣味を解していようとは初めから思
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