《ほか》に今一つ宴会がおありなさるそうで、お先きへお立ちになりました。諸君に宜《よろ》しく申してくれと云うことでありました。どうぞ跡の諸君は御ゆっくりなさるように願います。只今|別品《べっぴん》が参ります」
所々《しょしょ》に拍手するものがある。見れば床の間の前の真中の席は空虚になっていた。
殆ど同時に芸者が五六人這入って来た。
十七
席はもう大分乱れている。所々に少《ちい》さい圏《わ》を作って話をしているかと思えば、空虚な坐布団も間々《あいだあいだ》に出来ている。芸者達は暫く酌をしていたが、何か※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、140−8]《ささや》き合って一度に立ってこん度は三味線を持って出た。そして入口《いりぐち》のあたりで、床の間に併行した線の上に四人が一列に並んで、弾いたり歌ったりすると、二人はその前に立って踊った。そうぞうしかった話声があらかた歇《や》んだ。中にはひどく真面目になって踊を見ているものもある。
まだ純一の前を起たずに、背を円くして胡坐《あぐら》を掻《か》いて、不精らしく紙巻煙草を飲んでいた瀬戸が、「長歌の老松《おいまつ》というのだ」と、教育的説明をして、暫くして又こう云った。
「見給え。あのこっちから見て右の方で踊っている芸者なんぞは、お茶碾き仲間にしては別品だね」
「僕なんぞはどうせ上手か下手か分からないのだから、踊はお酌の方が綺麗で好かろうと思う。なぜきょうはお酌が来ないのだろう」
「そうさね。明いたのがいなかったのだろう」
こう云って、瀬戸はついと起って、どこかへ行ってしまった。純一は自分の右も左も皆空席になっているのに気が附いて、なんだか居心が悪くなった。そこで電車で逢って一しょに来た、あの高山先生の処へでも行って見ようかと、ふと思い附いて、先生の顔が見えたように思った、床の間の左の、違棚《ちがいだな》のあたりを見ると、先生は相変らず何やら盛んに話している。自分の隣にいた曽根も先生の前へ行っている。純一は丁度|好《い》いと思って、曽根の背後《うしろ》の方へ行って据わって、高山先生の話を聞いた。先生はこんな事を言っている。
「秦淮《しんわい》には驚いたね。さようさ。幅が広い処で六間もあろうか。まあ、六間幅の溝《どぶ》だね。その水のきたないことおびただしい。それから見ると、西湖《せいこ》の方はとに
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