っているのは、さっき電車で初めて逢った高山先生である。先生は両手を火鉢に翳《かざ》しながら、何やら大声で話している。純一はしょさいなさにこれに耳を傾けた。聞けば狸《たぬき》の話をしている。
「そりゃあわたし共のいた時の聖堂なんというものは、今の大学の寄宿舎なんぞとは違って、風雅なものだったよ。狸が出たからね。我々は廊下続きで、障子を立て切った部屋を当てがわれている。そうすると夜なか過ぎになって、廊下に小さい足音がする。人間の足音ではない。それが一つ一つ部屋を覗《のぞ》いて歩くのだ。起きていると通り過ぎてしまう。寐《ね》ているなら行燈《あんどん》の油を嘗《な》めようというのだね。だから行燈は自分で掃除しなくても好《い》い。廊下に出してさえ置けば、狸|奴《め》が綺麗に舐《な》めてくれる。それは至極結構だが、聖堂には狸が出るという評判が立ったもんだから、狸の贋物《にせもの》が出来たね。夏なんぞは熱くて寐られないと、紙鳶糸《たこいと》に杉の葉を附けて、そいつを持って塀の上に乗って涼んでいる。下を通る奴は災難だ。頭や頬っぺたをちょいちょい杉の葉でくすぐられる。そら、狸だというので逃げ出す。大小を挿《さ》した奴は、刀の反りを打って空《くう》を睨《にら》んで通る。随分悪い徒《いたず》らをしたものさね。しかしその頃の書生だって、そんな子供のするような事ばかししていたかというと、そうではない。塀を乗り越して出て、夜の明けるまでに、塀を乗り越して帰ったこともある。人間に論語さえ読ませて置けばおとなしくしていると思うと大違いさ」
狸の話が飛んだ事になってしまった。純一は驚いて聞いていた。
そこへ瀬戸が来て、「君会費を出したか」と云うので、純一はやっと気が附いて、瀬戸に幹事の所へ連れて行って貰った。
曽根という人は如才なさそうな小男である。「学生諸君は一円です」と云う。
純一は一寸《ちょっと》考えて、「学生でなければ幾らですか」と云った。
曽根は余計な事を問う奴だと思うらしい様子であったが、それでも慇懃《いんぎん》に「五円ですが」と答えた。
「そうですか」と云って、純一が五円札を一枚出すのを見て、背後《うしろ》に立っていた瀬戸が、「馬鹿にきばるな」と冷かした。曽根は真面目な顔をして、名を問うて帳面に附けた。
そのうち人が段々来て、曽根の持っていた帳面の連名の上に大抵丸印が附いた
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