ときは、さすがに胸が跳《おど》った。それは奥さんに気兼をする感じではなくて、シチュアシヨンの感じであった。
いつか見た小間使の外にどんな奉公人がいるか知らないが、もう日が暮れているのだから、知らない顔のものが出て来はしないかと思った。しかしベルが鳴ると、直ぐにあの小間使が出た。奥さんがしづえと呼んでいたっけ。代々の小間使の名かも知れない。おおかた表玄関のお客には、外の女中は出ないのだろう。
ベルが鳴ってから電気を附けたと見えて、玄関の腋《わき》の※[#「※」は「木へん+靈」、第3水準1−86−29、119−14]子《れんじ》の硝子にぱっと明りが映ったのであった。
己の顔を見て「おや」と云って、「一寸《ちょっと》申し上げて参ります」と、急いで引き返して行った。黙って上がっても好《い》いと云われたことはあるが、そうも出来ない。奥へ行ったかと思うと、直ぐに出て来て、「洋室は煖炉《ストオブ》が焚《た》いてございませんから、こちらへ」と云って、赤い緒の上草履を揃《そろ》えて出した。
廊下を二つ三つ曲がった。曲がり角に電気が附いているきりで、どの部屋も真暗で、しんとしている。
しづえの軽い足音と己の重い足音とが反響をした。短い間ではあったが、夢を見ているような物語めいた感じがした。
突き当りに牡丹《ぼたん》に孔雀《くじゃく》をかいた、塗縁《ぬりぶち》の杉戸がある。上草履を脱いで這入って見ると内外《うちそと》が障子で、内の障子から明りがさしている。国の内に昔お代官の泊った座敷というのがあって、あれがあんな風に出来ていた。なんというものだか知らない。仮りに書院造りのcolonnade《コロンナアド》と名づけて置く。恒《こう》先生はだいぶお大名染《だいみょうじ》みた事が好きであったと思う。
しづえが腰を屈《かが》めて、内の障子を一枚開けた。この間《ま》には微かな電燈が只一つ附けてあった。何も掛けてない、大きい衣桁《いこう》が一つ置いてあるのが目に留まった。しづえは向うの唐紙の際へ行って、こん度は膝《ひざ》を衝いて、「いらっしゃいました」と云って、少し間を置いて唐紙を開けた。
己はとうとう奥さんに逢った。この第三の会見は、己が幾度か実現させまいと思って、未来へ押し遣るようにしていたのであったが、とうとう実現させてしまったのである。しかも自分が主動者になって。
「どうぞお
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