破壊せられるのに心附かずにいた。一たび繋《つな》がれては断ち難い、堅靭《けんじん》なる索《なわ》を避けながら、己は縛せられても解き易い、脆弱《ぜいじゃく》なる索に対する、戒心を弛廃《しはい》させた。
 無智なる、可憐《かれん》なるお雪さんは、この破壊この弛廃を敢《あえ》てして自ら曉《さと》らないのである。
 もしお雪さんが来なかったら、己は部屋を出るとき、ラシイヌを持って出なかっただろう。
 己はラシイヌを手に持って、当てもなく上野の山をあちこち歩き廻っているうちに、不安の念が次第に増長して来て、脈搏《みゃくはく》の急になるのを感じた。丁度酒の酔《えい》が循《めぐ》って来るようであった。
 公園の入口まで来て、何となく物騒がしい広小路の夕暮を見渡していたとき、己は熱を病んでいるように、気が遠くなって、脚が体の重りに堪えないようになった。
 何を思うともなしに引き返して、弁天へ降りる石段の上まで来て、又立ち留まった。ベンチの明いているのが一つあるので、それに腰を掛けて、ラシイヌを翻《ひるがえ》して見たが、もうだいぶ昏《くら》くて読めない。無意味に引っ繰り返して、題号なんぞの大きい活字を拾って、Phedre[# 一つ目の「e」は「`」付き]《フェエドル》なんという題号を見て、ぼんやり考え込んでいた。
 ふいと気が附いて見ると、石段の傍にある街燈に火が附いていた。形が妙に大きくて、不愉快な黄色に見える街燈であった。まさかあんな色の色硝子《いろガラス》でもあるまい。こん度通る時好く見ようと思う。
 人間の心理状態は可笑《おか》しなものである。己はあの明りを見て、根岸へ行こうと決心した。そして明りの附いたのと決心との間に、密接の関係でもあるように感じた。人間は遅疑しながら何かするときは、その行為の動機を有り合せの物に帰するものと見える。
 根岸へ向いて歩き出してからは、己はぐんぐん歩いた。歩度は次第に急になった。そして見覚えのある生垣や門が見えるようになってからも、先方の思わくに気兼をして、歩度を緩めるような事はなかった。あの奥さんがどう迎えてくれるかとは思ったが、その迎えかたにこっちが困るような事があろうとは思わなかったのである。
 門には表札の上の処に小さい電燈が附いていて、潜《くぐ》りの戸が押せば開《あ》くようになっていた。それを這入って、門口《かどぐち》のベルを押した
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