たことやら、純一はいろいろな事を聞せられた。
話を聞きながら、純一はお雪さんの顔を見ている。譬《たと》えば微《かす》かな風が径尺の水盤の上を渡るように、この愛くるしい顔には、絶間なく小さい表情の波が立っている。お雪さんの遊びに来たことは、これまで何度だか知らないが、純一はいつもこの娘の顔を見るよりは、却ってこの娘に顔を見られていた。それがきょう始て向うの顔をつくづく見ているのである。
そして純一はこう云うことに気が附いた。お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。それは当り前の事であるのに、純一の為めには、そう思った刹那に、大いなる発見をしたように感ぜられたのである。なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為《な》すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。しかし我一歩を進めたら、彼一歩を迎えるだろうか。それとも一歩を退《しりぞ》くだろうか。それとも守勢《しゅぜい》を取って踏み応えるであろうか。それは我には分からない。又多分彼にも分からないのであろう。とにかく彼には強い智識欲がある。それが彼をして待つような促すような態度に出《い》でしむるのである。
純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆《きたい》なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危《あやう》いことは実に甚だしいと思ったのである。そしてお雪さんがこの間《ま》に這入った時から、自分の身の内に漂っていた、不安なような、衝動的なような感じが、払い尽されたように消え失せてしまった。
火鉢の灰を掻《か》きならしている純一が、こんな風に頓《とみ》に感じた冷却は、不思議にもお雪さんに通じた。夢の中でする事が、抑制を受けない為めに、自在を得ているようなものである。そして素直な娘の事であるから、残惜しいという感じに継いで、すぐに諦《あきら》めの感じが起る。
「またこん度遊びに来ましょうね」何か悪い事でもしたのをあやまるように云って、坐を立った。
「ええ。お出《いで》なさいよ」純一は償《つぐの》わずに置く負債があるような心持をして、常よりは優しい声で云って、重たげに揺らぐお下げの後姿を見送っていた。
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