なさいまし。お妹御さんが悪かったのですってね。もうお直りになったのですか」純一はお雪さんに物を言うとなると、これまで苦しいのを勉《つと》めて言うような感じがしてならなかったのであるが、きょうはなんだかその感じが薄らいだようである。全く無くなってしまいはしないが、薄らいだだけは確かなようである。
「よく御存じね。婆あやがお話ししたのでしょう。腎臓の方はどうせ急には直らないのだということですから、きのう退院して参りましたの。もう十日も前から婆あやにも安《やす》にも逢わないもんですから、わたくしはあなたがどっかへ越しておしまいなさりはしないかと思ってよ」こう云いながら、徐《しず》かに縁側に腰を掛けた。暫く来《こ》なかったので、少し遠慮をするらしく、いつかじゅうよりは行儀が好《い》い。
「なぜそう思ったのです」
「なぜですか」と無意味に云ったが、暫くして「ただそう思ったの」と少しぞんざいに言い足した。
 雲の絶間から、傾き掛かった日がさして、四目垣の向うの檜《ひのき》の影を縁《えん》の上に落していたのが、雲が動いたので消えてしまった。
「わたくしこんな事をしていると、あなた風を引いておしまいなさるわ」細い指をちょいと縁に衝《つ》いて、立ちそうにする。
「這入《はい》ってお締めなさい」
「好くって」返事を待たずに千代田草履を脱ぎ棄てて這入った。
 障子はこの似つかわしい二人を狭い一間に押し籠めて、外界との縁を断ってしまった。しかしこういう事はこれが始めではない。今までも度々あって、その度毎に純一は胸を躍らせたのである。
「画があるでしょう。ちょいと拝見」
 純一と並んで据わって、机の上にあった西洋雑誌をひっくり返して見ている。
 お召の羽織の裾がしっとりしたjet de la draperie《ジェエ ド ラ ドラプリイ》をなして、純一が素早く出して薦めた座布団の上に委積《たたな》わって、その上へたっぷり一握《ひとつか》みある濃い褐色のお下げが重げに垂れている。
 頬から、腮《あご》から、耳の下を頸《くび》に掛けて、障ったら、指に軽い抗抵をなして窪《くぼ》みそうな、※[#「※」は「年+鳥」、第3水準 1−94−59、113−2]色《ときいろ》の肌の見えているのと、ペエジを翻《かえ》す手の一つ一つの指の節に、抉《えぐ》ったような窪みの附いているのとの上を、純一の不安な目は往反《
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