が夜上野の山を歩いた翌日は、十二月二十二日であった。朝晴れていた空が、午後は薄曇になっている。読みさした雑誌を置いて、純一は締めた障子を見詰めてぼんやりしている。己はいつかラシイヌを読もうと思っていて、まだ少しも読まないと、ふと思ったのが縁になって、遮り留めようとしている人の俤が意地悪く念頭に浮かんで来る。「いつでも取り換えにいらっしゃいよ。そう申して置きますから、わたくしがいなかったら、ずんずん上がって取り換えていらっしゃって宜しゅうございます」と坂井の奥さんは云った。その権利をこちらではまだ一度も用に立てないでいるのである。葉書でも来はすまいかと、待ちたくないと戒めながら、心の底で待っていたが、あれは顛倒《てんどう》した考えであったかも知れない。おとずれはこちらからすべきである。それをせぬ間、向うで控えているのは、あの奥さんのつつましい、frivole《フリヴオル》でないのを証拠立てているのではあるまいか。それともわざと縦《はな》って置いて、却《かえ》って確実に、擒《とりこ》にしようとする手管かも知れない。若しそうなら、その手管がどうやら己の上に功を奏して来そうにも感ぜられる。遠慮深い人でないということは、もう経験していると云っても好《い》い。どうしても器《うつわ》を傾けて飲ませずに、渇したときの一滴に咽《のど》を霑《うるお》させる手段に違いない。純一はこんな事を思っているうちに、空想は次第に放縦になって来るのである。
 この時飛石を踏む静かな音がした。
「いらっしって」女の声である。
 純一ははっと思った。ちゃんと机の前に据わっているのだから、誰《たれ》に障子を開けられても好《い》いのであるが、思っていた事を気が咎《とが》めて、慌てて居住まいを直さなくてはならないように感じた。
「どなたです」と云って、内から障子を開けた。
 にっこり笑って立っているのはお雪さんである。きょうは廂髪《ひさしがみ》の末を、三組《みつぐみ》のお下げにしている。長い、たっぷりある髪を編まれるだけ編んで、その尖の処に例のクリイム色のリボンを掛けている。黄いろい縞の銘撰《めいせん》の着物が、いつかじゅう着ていたのと、同じか違うか、純一には鑒別《かんべつ》が出来ない。只羽織が真紫のお召であるので、いつかのとは違っているということが分かった。
「どうぞお掛けなさい。それとも寒いなら、お上がん
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