ずれに、吉原の電灯が幻のように、霧の海に漂っている。暫く立って眺めているうちに、公園で十一時の鐘が鳴った。巡査が一人根岸から上がって来て、純一を角灯で照して見て、暫く立ち留まって見ていて、お霊屋《たまや》の方へ行った。
純一の視線は根岸の人家の黒い屋根の上を辿《たど》っている。坂の両側の灌木《かんぼく》と、お霊屋の背後の森とに遮られて、根岸の大部分は見えないのである。
坂井夫人の家はどの辺だろうと、ふと思った。そして温い血の波が湧《わ》き立って、冷たくなっている耳や鼻や、手足の尖《さき》までも漲《みなぎ》り渡るような心持がした。
坂井夫人を尋ねてから、もう二十日ばかりになっている。純一は内に据わっていても、外を歩いていても、おりおり空想がその人の俤《おもかげ》を想い浮べさせることがある。これまで対象のない係恋《あこがれ》に襲われたことのあるに比べて見れば、この空想の戯れは度数も多く光彩も濃いので、純一はこれまで知らなかった苦痛を感ずるのである。
身の周囲《まわり》を立ち籠《こ》めている霧が、領《えり》や袖や口から潜《もぐ》り込むかと思うような晩であるのに、純一の肌は燃えている。恐ろしい「盲目なる策励」が理性の光を覆うて、純一にこんな事を思わせる。これから一走りにあの家へ行って、門のベルを鳴らして見たい。己《おれ》がこの丘の上に立ってこう思っているように、あの奥さんもほの暗い電燈の下の白いcourte−pointe《クウルト ポアント》の中で、己を思っているのではあるまいか。
純一は忽《たちま》ち肌の粟立《あわだ》つのを感じた。そしてひどく刹那《せつな》の妄想《もうそう》を慙《は》じた。
馬鹿な。己はどこまでおめでたい人間だろう。芝居で只一度逢って、只一度尋ねて行っただけの己ではないか。己が幾人かの中の一人に過ぎないということは、殆ど問うことを須《ま》たない。己の方で遠慮をしていれば、向うからは一枚の葉書もよこさない。二十日ばかりの長い間、己は待たない、待ちたくないと思いながら、意志に背いて便《たより》を待っていた。そしてそれが徒《いたず》ら事であったではないか。純一は足元にあった小石を下駄で蹴飛《けと》ばした。石は灌木の間を穿《うが》って崖《がけ》の下へ墜《お》ちた。純一はステッキを揮《ふ》って帰途に就いた。
* * *
純一
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