ぶん》に起って、次第に品位を高めたものであった。記者と共に調子は幾度も変った。しかし近年のように、文芸方面に向って真面目に活動したことはなかった。それは所謂自然主義の唯一の機関と云っても好《い》いようになってからの事である。ところが社主が亡くなって、新聞は遺産として、親から子の手に渡った。これまでの新聞の発展は、社主が意識して遂げさせた発展ではなかった。思想の新しい記者が偶然這入る。学生やなんぞのような若い読者が偶然殖える。記者は知らず識《し》らず多数の新しい読者に迎合するようになる。こういう交互の作用がいつか自然主義の機関を成就させたのであった。それを故《もと》の社主は放任していたのである。新聞は新しい社主の手に渡った。少壮政治家の鉄のような腕《かいな》が意識ある意志によって揮《ふる》われた。社中のものの話に聞けば、あの背《せい》の低い、肥満した体を巴里為立《パリイじた》てのフロックコオトに包んで、鋭い目の周囲に横着そうな微笑を湛《たた》えた新社主|誉田《ほんだ》男爵は、欧羅巴《ヨオロッパ》の某大国のCorps diplomatique《コオル ジプロマチック》で鍛えて来た社交的|伎倆《ぎりょう》を逞《たくましゅ》うして、或る夜一代の名士を華族会館の食堂に羅致《らち》したのである。今後は賛助員の名の下に、社会のあらゆる方面の記事を東京新聞に寄せることになったという、この名士とはどんな人々であったか。帝国大学の総ての分科の第一流の教授連がその過半を占めていたのである。新聞はこれからacademique[#一つ目の「e」は「´」付き]《アカデミック》になるだろう。社会の出来事は、謂《い》わば永遠の形の下《もと》に見た鳥瞰図《ちょうかんず》になって、新聞を飾るだろう。同じ問題でも、今まで焼芋の皮の燻《くすぶ》る、縁《ふち》の焦げた火鉢の傍《そば》で考えた事が発表せられた代りに、こん度は温室で咲かせた熱帯の花の蔭から、雪を硝子《ガラス》越しに見る窓の下で考えた事が発表せられるだろう。それは結構である。そんな新聞もあっても好《い》い。しかし社員の中《うち》で只一人華族会館のシャンパニエエの杯《さかずき》を嘗《な》めなかった路花はどうしても車の第三輪になるのである。それなのに「見てい給え、今に僕なんぞの新聞は華族新聞になるんだ」と、平気な顔をして云っている。
純一は著作の邪
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