い》い処ですね」と、覚えず純一が云った。
「好かろう」と、大村は無邪気に得意らしく云って、腰掛けに掛けた。
大村が紙巻煙草に火を附ける間、純一は沼の上を見わたしている。僅か二三間先きに、枯葦《かれあし》の茂みを抜いて立っている杙《くい》があって、それに鴉が一羽《いちわ》止まっている。こっちを向いて、黒い円い目で見て、紫色の反射のある羽をちょいと動かしたが、又居ずまいを直して逃げずにいる。
大村が突然云った。「まだ何も書いて見ないのですか」
「ええ。蜚《と》ばず鳴かずです」と、純一は鴉を見ながら答えた。
「好く文学者の成功の事を、大いなるcoup《クウ》をしたと云うが、あれは采《さい》を擲《なげう》つので、つまり芸術を賭博《とばく》に比したのだね。それは流行作者、売れる作者になるにはそういう偶然の結果もあろうが、censure《サンシュウル》問題は別として、今のように思想を発表する道の開けている時代では、価値のある作が具眼者に認められずにしまうという虞れは先ず無いね。だから急ぐには及ばないが、遠慮するにも及ばない。起《た》とうと思えば、いつでも起てるのだからね」
「そうでしょうか」
「僕なんぞはそういう問題では、非常に楽天的に考えていますよ。どんなに手広に新聞雑誌を利用しているclique《クリク》でも、有力な分子はいつの間にか自立してしまうから、党派そのものは脱殻《ぬけがら》になってしまって、自滅せずにはいられないのです。だからそんなものに、縋《すが》ったって頼もしくはないし、そんなものに黙殺せられたって、悪く言われたって阻喪するには及ばない。無論そんな仲間に這入るなんという必要はないのです」
「しかし相談相手になって貰われる先輩というようなものは欲しいと思うのですが」
「そりゃああっても好《い》いでしょうが、縁のある人が出合うのだから、強いて求めるわけには行《い》かない。紹介状やなんぞで、役に立つ交際が成り立つことは先ず無いからね」
こんな話をしているうちに、三味線や歌が聞え已《や》んだので、純一は時計を見た。
「もう五時を大分過ぎています」
「道理で少し寒くなって来た」と云って、大村が立った。
鴉が一声啼いて森の方へ飛んで行った。その行方を見送れば、いつの間にか鼠色の薄い雲が空を掩《おお》うていた。
二人は暫く落葉の道を歩いて上りの汽車に乗った。
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