「山」の下に「手へん+甘」」、99−13]めて見ようとするからね」
こんな事を話しながら、二人は公園の門を這入った。常磐木の間に、葉の黄ばんだ雑木の交っている茂みを見込む、二本柱の門に、大宮公園と大字で書いた木札の、稍古びたのが掛かっているのである。
落葉の散らばっている、幅の広い道に、人の影も見えない。なる程大村の散歩に来そうな処だと、純一は思った。只どこからか微《かす》かに三味線《しゃみせん》の音《ね》がする。純一が云った。
「さっきお話しのワイニンゲルなんぞは女性をどう見ているのですか」
「女性ですか。それは余程|振《ふる》っていますよ。なんでも女というものには娼妓のチイプと母のチイプとしかないというのです。簡単に云えば、娼と母《ぼ》とでも云いますかね。あの論から推すと、東京《とうけい》や無名通信で退治ている役者買の奥さん連は、事実である限りは、どんなに身分が高くても、どんな金持を親爺《おやじ》や亭主に持っていても、あれは皆|娼妓《しょうぎ》です。芸者という語を世界の字書に提供した日本に、娼妓の型が発展しているのは、不思議ではないかも知れない。子供を二人しか生まないことにして、そろそろ人口の耗《へ》って来るフランスなんぞは、娼妓の型の優勝を示しているのに外ならない。要するにこの質《たち》の女はantisociale《アンチソシアル》です。幸《さいわい》な事には、他の一面には母《はは》の型があって、これも永遠に滅びない。母の型の女は、子を欲しがっていて、母として子を可哀《かわい》がるばかりではない。娘の時から犬ころや猫や小鳥をも、母として可哀がる。娵《よめ》に行《い》けば夫をも母として可哀がる。人類の継続の上には、この型の女が勲功を奏している。だから国家が良妻賢母主義で女子を教育するのは尤《もっと》もでしょう。調馬手が馬を育てるにも、駈足は教えなくても好《い》いようなもので、娼妓の型には別に教育の必要がないだろうから」
「それでは女子が独立していろいろの職業を営んで行《い》くようになる、あの風潮に対してはどう思っているのでしょう」
「あれはM>Wの女と看做《みな》して、それを育てるには、男の這入るあらゆる学校に女の這入るのを拒まないようにすれば好《い》いわけでしょうよ」
「なる程。そこで恋愛はどうなるのです。母の型の女を対象にしては恋愛の満足は出来ないでしょ
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