始終主格のない話ばかりなのである。
大村が黙っているので、純一も遠慮して黙っている。詠子さんはやはり端然としている。
窓の外は同じような田圃道《たんぼみち》ばかりで、おりおりそこに客を載せてゆっくり歩いている人力車なんぞが見える。刈跡から群がって雀が立つ。醜い人物をかいた広告の一つに、鴉《からす》の止まっていたのが、嘴《くちばし》を大きく開《あ》いて啼《な》きながら立つ。
室内は、左の窓から日の差し込んでいる処に、小さい塵《ちり》が跳《おど》っている。
黒人《くろうと》らしい女連も黙ってしまう。なぜだか大村が物を言わないので、純一も退屈には思いながら黙っていた。
王子を過ぎるとき、窓から外を見ていた純一が、「ここが王子ですね」と云うと、大村は「この列車は留まらないのだよ」と云ったきり、又黙ってしまった。
赤羽で駅員が一人這入って来て、卓《テエブル》の上に備えてある煎茶の湯に障《さわ》って見て、出て行った。ここでも、蕨《わらび》や浦和でも、多少の乗客の出入《でいり》はあったが、純一等のいる沈黙の一等室には人の増減がなかった。詠子さんは始終端然としているのである。
三時過ぎに大宮に着いた。駅員に切符を半分折り取らせて、停車場を出るとき、大村がさも楽々したという調子で云った。
「ああ苦しかった」
「なぜです」
「馬鹿げているけれどね、僕は或る種類の人間には、なるべく自己を観察して貰いたくないのだ」
「その種類の人間に詠子さんが属しているのですか」
大村は笑った。「まあ、そうだね」
「一体どういう種類なのでしょう」
「そうさね。一寸説明に窮するね。要するに自己を誤解せられる虞《おそれ》のある人には、自己を観察して貰いたくないとでも云ったら好《い》いのでしょう」純一は目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、99−8]《みは》っている。「これでは余り抽象的かねえ。所謂《いわゆる》教育界の人物なんぞがそれだね」
「あ。分かりました。つまりhypocrites《イポクリイト》だと云うのでしょう」
大村は又笑った。「そりゃあ、あんまり酷だよ。僕だってそれ程教育家を悪く思っていやしないが、人を鋳型に※[#「※」は「「山」の下に「手へん+甘」」、99−12]《は》めて拵《こしら》えようとしているのが癖になっていて、誰《だれ》をでもその鋳型に※[#「※」は「
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