したが、君は気が附きませんでしたか」
「気が附かなくて。あれは、君、有名な高畠詠子《たかばたけえいこ》さんだよ」
「そうですか」と云った純一は、心の中《うち》になる程と頷《うなず》いた。東京の女学校長で、あらゆる毀誉褒貶《きよほうへん》を一身に集めたことのある人である。校長を退《しりぞ》いた理由としても、種々の風説が伝えられた。国にいたとき、田中先生の話に、詠子さんは演説が上手で、或る目的を以て生徒の群に対して演説するとなると、ナポレオンが士卒を鼓舞するときの雄弁の面影があると云った。悪徳新聞のあらゆる攻撃を受けていながら、告別の演説でも、全校の生徒を泣かせたそうである。それも一時《いちじ》の感動ばかりではない。級《クラス》ごとに記念品を贈る委員なぞが出来たとき、殆ど一人《いちにん》もその募りに応ぜなかったものはないということである。とにかく英雄である。絶えず自己の感情を自己の意志の下《もと》に支配している人物であろうと、純一は想像した。
「女丈夫だとは聞いていましたが、一寸見てもあれ程態度の目立つ人だとは思わなかったのです」
「うん。態度のrepresentative[# 二つ目の「e」は「´」付き]《ルプレザンタチイヴ》な女だね」
「それに実際えらいのでしょう」
「えらいのですとも。君、オオトリシアンで、まだ若いのに自殺した学者があったね。Otto《オットオ》 Weininger《ワイニンゲル》というのだ。僕なんぞはニイチェから後《のち》の書物では、あの人の書いたものに一番ひどく動《うごか》されたと云っても好《い》いが、あれがこう云う議論をしていますね。どの男でも幾分か女の要素を持っているように、どの女でも幾分か男の要素を持っている。個人は皆M+Wだというのさ。そして女のえらいのはMの比例数が大きいのだそうだ」
「そんなら詠子さんはMを余程沢山持っているのでしょう」と云いながら、純一は自分には大分Wがありそうだと思って、いやな心持がした。
風炉敷包を持った連中は、もうさっきから黒い木札の立ててある改札口に押し掛けている。埒《らち》が開《あ》くや否や、押し合ってプラットフォオムへ出る。純一はとかくこんな時には、透くまで待っていようとするのであるが、今日大村が人を押し退《の》けようともせず、人に道を譲りもせずに、群集《ぐんじゅ》を空気扱いにして行《ゆ》くので、その
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