片隅で、煙草を買っている間に、純一は一等待合に這入って見た。
 ここで或る珍らしい光景が純一の目に映じた。
 中央に据えてある卓《テエブル》の傍《わき》に、一人の夫人が立っている。年はもう五十を余程越しているが、純一の目には四十位にしか見えない。地味ではあるが、身の廻りは立派にしているように思われた。小さく巻いた束髪に、目立つような髪飾もしていないが、鼠色《ねずみいろ》の毛皮の領巻《えりまき》をして、同じ毛皮のマッフを持っている。そして五六人の男女に取り巻かれているが、その姿勢や態度が目を駭《おどろ》かすのである。
 先《ま》ず女王がcercle《セルクル》をしているとしか思われない。留守を頼んで置く老女に用事を言い附ける。随行らしい三十歳ばかりの洋服の男に指図をする。送って来たらしい女学生風の少女に一人一人訓戒めいた詞を掛ける。切口状《きりこうじょう》めいた詞が、血の色の極淡い脣《くちびる》から凛《りん》として出る。洗錬を極めた文章のような言語に一句の無駄がない。それを語尾一つ曖昧《あいまい》にせずに、はっきり言う。純一は国にいたとき、九州の大演習を見に連れて行《ゆ》かれて、師団長が将校集まれの喇叭《ラッパ》を吹かせて、命令を伝えるのを見たことがある。あの時より外には、こんな口吻《こうふん》で物を言う人を見たことがないのである。
 純一は心のうちで、この未知の夫人と坂井夫人とを比較することを禁じ得なかった。どちらも目に立つ女であって、どこか技巧を弄《ろう》しているらしい、しかしそれが殆ど自然に迫っている。外《ほか》の女は下手が舞台に登ったようである。丁度芸術にも日本には或るmanierisme[# 一つ目の「e」は「´」付き]《マニエリスム》が行われているように、風俗にもそれがある。本で読んだり、画で見たりする、西洋の女のように自然が勝っていない。そしてその技巧のある夫人の中で、坂井の奥さんが女らしく怜悧《れいり》な方の代表者であるなら、この奥さんは女丈夫《じょじょうふ》とか、賢夫人とか云われる方の代表者であろうと思った。
 そこへ、純一はどこへ行ったかと見廻しているような様子で、大村が外から覗いたので、純一はすぐに出て行って、一しょに三等客の待っているベンチの側《そば》の石畳みの上を、あちこち歩きながら云った。
「今一等待合にいた夫人は、当り前の女ではないようで
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