ろうし、両方の動機を有しているのもあるでしょう。そこで新人だって積極的なものを求めて、道徳を構成しようとか、宗教を構成しようとかいうことになれば、それはどうせ利己では行《い》けないでしょうよ」
「それではどうしても又因襲のような或る物に縛《ばく》せられるのですね。いつかもその事を言ったら、あなたは縄の当り処が違うと云ったでしょう。あれがどうも好く分らないのですが」
「大変な事を記憶していましたね。僕はまあ、こんな風に思っているのです。因襲というのは、その縛《いましめ》が本能的で、無意識なのです。新人が道徳で縛られるのは、同じ縛《いましめ》でも意識して縛られるのです。因襲に縛られるのが、窃盗をした奴が逃げ廻っていて、とうとう縛られるのなら、新人は大泥坊が堂々と名乗って出て、笑いながら縛《ばく》に就くのですね。どうせ囚われだの縛《いましめ》だのという語《ことば》を使うのだから」
大村が自分で云って置いて、自分が無遠慮に笑うので、純一も一しょになって笑った。暫くしてから純一が云った。
「そうして見ると、その道徳というものは自己が造るものでありながら、利他的であり、social《ソシアル》であるのですね」
「無論そうさ。自己が造った個人的道徳が公共的になるのを、飛躍だの、復活だのと云うのだね。だから積極的新人が出来れば、社会問題も内部から解決せられるわけでしょう」
二人は暫く詞が絶えた。料理は小鳥の炙《あぶり》ものに萵苣《ちさ》のサラダが出ていた。それを食ってしまって、ヴェランダへ出て珈琲《コオフィイ》を飲んだ。
勘定を済ませて、快い冬の日を角帽と鳥打帽とに受けて、東京に珍らしい、乾いた空気を呼吸しながら二人は精養軒を出た。
十二
二人は山を横切って、常磐華壇《ときわかだん》の裏の小さな坂を降りて、停車|場《ば》に這入《はい》った。時候が好《い》いので、近在のものが多く出ると見えて、札売場の前には草鞋《わらじ》ばきで風炉敷包《ふろしきづつみ》を持った連中が、ぎっしり詰まったようになって立っている。
「どこにしようか」と、大村が云った。
「王子も僕はまだ行ったことがないのです」と純一が云った。
「王子は余り近過ぎるね。大宮にしよう」大村はこう云って、二等待合の方に廻って、一等の札を二枚買った。
時間はまだ二十分程ある。大村が三等客の待つベンチのある処の
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