青年の読む本ではないね」
目で笑って純一の顔を見た。純一は黙って歩いている。
天王寺前の通に出た。天気の好《い》いわりに往来は少い。墓参《はかまいり》に行《い》くかと思われるような女子供の、車に乗ったのに逢った。町屋の店先に莚蓆《むしろ》を敷いて、子供が日なたぼこりをして遊んでいる。
動物園前から、東照宮の一の鳥居の内を横切って、精養軒の裏口から這入った。
帳場の前を横切って食堂に這入ると、丁度客が一人もないので、給仕が二三人|煖炉《だんろ》の前で話をしていたが、驚いたような様子をして散ってしまった。その一人のヴェランダに近い卓《テエブル》の処まで附いて来たのに、食事を誂《あつら》えた。
酒はと問われて、大村は麦酒《ビイル》、純一はシトロンを命じた。大村が「寒そうだな」と云った。
「酒も飲めないことはないのですが、構えて飲むという程好きでないのです」
「そんなら勧めたら飲むのですか」
この詞が純一の耳には妙に痛切に響いた。「ええ。どうも僕はpassif《パッシイフ》で行《い》けません」
「誰だってあらゆる方面にactif《アクチイフ》にagressif《アグレッシイフ》に遣《や》るわけには行《い》かないよ」
給仕がスウプを持って来た。二人は暫く食事をしながら、雑談をしているうちに、何の連絡もなしに、純一が云った。
「男子の貞操という問題はどういうものでしょう」
「そうさ。僕は医学生だが、男子は生理上に、女子よりも貞操が保ちにくく出来ているだけは、事実らしいのだね。しかし保つことが不可能でもなければ、保つのが有害でも無論ないということだ。御相談とあれば、僕は保つ方を賛成するね」
純一は少し顔の赤くなるのを感じた。「僕だって保ちたいと思っているのです。しかし貞操なんというものは、利己的の意義しかないように思うのですが、どうでしょう」
「なぜ」
「つまり自己を愛惜するに過ぎないのではないでしょうか」
大村は何やら一寸考えるらしかったが、こう云った。「そう云えば云われないことはないね。僕の分からないと思ったのは、生活の衝動とか、種族の継続とかいうような意義から考えたからです。その方から見れば、生活の衝動を抑制しているのだから、egoistique《エゴイスチック》よりはaltrustique《アルトリュスチック》の方になるからね。なんだか哲学臭いことを言う
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