さ。外国人が岡目八目で、やっぱり冬寒くなる前が一番|好《い》いと云っているね」
「そうですかねえ。どっちの方へ行《い》きますか」
「そうさ。僕もまだ極めてはいないのです。とにかく上野から汽車に乗ることにするさ」
「もうすぐ午《ひる》ですね」
「上野で食って出掛けるさ」
純一が袴《はかま》を穿いていると、大村は机の上に置いてある本を手に取って見た。
「大変なものを読んでいるね」
「そうですかね。まだ初めの方を見ているのですが、なんだかひどく厭世的な事が書いてあります」
「そうそう。行《ゆ》き留まりのカトリック教まで行って、半分道だけ引き返して、霊的自然主義になるという処でしょう」
「ええ。そこまで見たのです。一体先きはどうなるのですか」
こう云いながら、純一は袴を穿いてしまって、鳥打帽を手に持った。大村も立って戸口に行って腰を掛けて、編上沓《あみあげぐつ》を穿き掛けた。
「まあ、歩きながら話すから待ち給え」
純一は先きへ下駄を引っ掛けて、植木屋の裏口を覗《のぞ》いて、午食《ひる》をことわって置いて、大村と一しょに歩き出した。大村と並んで歩くと、動《やや》もすればこの巌乗《がんじょう》な大男に圧倒せられるような感じのするのを禁じ得ない。
純一の感じが伝わりでもしたように、大村は一寸《ちょっと》純一の顔を見て云った。
「ゆっくり行《い》こうね」
なんだか譲歩するような、庇護《ひご》するような口調であった。しかし純一は不平には思わなかった。
「さっきの小説の先きはどうなるのですか」と、純一が問うた。
「いや。大変なわけさ。相手に出て来る女主人公は正真正銘のsataniste《サタニスト》なのだからね。しかしドュルタルは驚いて手を引いてしまうのです。フランスの社会には、道徳も宗教もなくなって、只悪魔主義だけが存在しているという話になるのです。今まであの作者のものは読まなかったのですか」
「ええ。つい読む機会がなかったのです。あの本も註文して買ったのではないのです。瀬戸が三才社に大分沢山フランスの小説が来ていると云ったので、往って見たとき、ふいと買ったのです」
「瀬戸はフランスは読めないでしょう」
「読めないのです。学校で奨励しているので、会話かなんかを買いに行ったとき、見て来て話したのです」
「そんな事でしょう。まあ、読んで見給え。随分猛烈な事が書いてあるのだ。一体
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