のを感じた。その躊躇している虚に乗ずるように、色々な記憶が現れて来る。しなやかな体の起《た》ちよう据わりよう、意味ありげな顔の表情、懐かしい声の調子が思い出される。そしてそれを惜む未錬の情のあることを、我ながら抹殺《まっさつ》してしまうことが出来ないのである。又してもこの部屋であの態度を見たらどうだろうなどと思われる。脱ぎ棄てた吾嬬《あづま》コオト、その上に置いてあるマッフまでが、さながら目に見えるようになるのである。
 純一はふと気が附いて、自分で自分を嘲って、又Huysmans《ヒュイスマンス》を読み出した。Durtal《ドュルタル》という主人公が文芸家として旅に疲れた人なら、自分はまだ途《みち》に上らない人である。ドュルタルは現世界に愛想《あいそ》をつかして、いっその事カトリック教に身を投じようかと思っては、幾度《いくたび》かその「空虚に向っての飛躍」を敢てしないで、袋町から踵《くびす》を旋《めぐ》らして帰るのである。それがなぜ愛想をつかしたかと思うと、実に馬鹿らしい。現世界は奇蹟の多きに堪《た》えない。金なんぞも大いなる奇蹟である。何か為事をしようと思っている人の手には金がない。金のある人は何も出来ない。富人が金を得れば、悪業《あくぎょう》が増長する。貧人が金を得れば堕落の梯《はしご》を降《くだ》って行《ゆ》く。金が集まって資本になると、個人を禍《わざわい》するものが一変して人類を禍するものになる。千万の人はこれがために餓死して、世界はその前に跪《ひざまず》く。これが悪魔の業《わざ》でないなら、不可思議であろう。奇蹟であろう。この奇蹟を信ぜざることを得ないとなれば、三位一体《さんみいったい》のドグマも信ぜられない筈がなくなると云うのである。
 純一は顔を蹙《しか》めた。そして作者の厭世《えんせい》主義には多少の同情を寄せながら、そのカトリック教を唯一の退却路にしているのを見て、因襲というものの根ざしの強さを感じた。
 十一時半頃に大村が尋ねて来た。月曜日の午前の最終一時間の講義と、午後の臨床講義とは某教授の受持であるのに、その人が事故があって休むので、今日は遠足でもしようかと思うということである。純一はすぐに同意して云った。
「僕はまだちっとも近郊の様子を知らないのです。天気もひどく好《い》いから、どこへでも御一しょに行《い》きましょう」
「天気はこの頃の事
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