出来ないで、自然主義をお座敷向きにしようとするリベラルな流義と、電信体の悪く気取った文章で、徒《いたず》らに霊的芸術の真似をしていて、到底思想の貧弱を覆うことの出来ない流儀とが出来ているというのである。
純一はここまで読んで来て、ふいと自分の思想が書物を離れて動き出した。目には文字《もんじ》を見ていて、心には別の事を思っている。
それは自分のきのうの閲歴が体だけの閲歴であって、自分の霊は別に空中の道を歩いていると思ったのが始で、それから本に書いてある事が余所になってしまったのである。
あの霊を離れた交を、坂井夫人はいつまで継続しようとするだろうか。きのうも既に心に浮かんだオオドのように、いつまでも己に附き纏《まと》うのだろうか。それとも夫人は目的を達するまでは、一直線に進んで来たが、既に目的を達した時が初《はじめ》の終なのであろうか。借りて帰っているラシイヌの一巻が、今は自分を向うに結び附けている一筋の糸である。あれを返すとき、向うは糸を切るであろうか。それともその一筋を二筋にも三筋にもしはすまいか。手紙をよこしはすまいか。この内へ尋ねて来はすまいか。
こう思うと、なんだかその手紙が待たれるような気がする。その人が待たれるような気がする。あのお雪さんは度々この部屋へ来た。いくら親しくしても、気が置かれて、帰ったあとでほっと息を衝く。あの奥さんは始めて顔を見た時から気が置けない。この部屋へでもずっと這入って来て、どんなにか自然らしく振舞うだろう。何を話そうかと気苦労をするような事はあるまい。話なんぞはしなくても分かっているというような風をするだろう。
純一はここまで考えて、空想の次第に放縦になって来るのに心附いた。そして自分を腑甲斐《ふがい》なく思った。
自分は男子ではないか。経験のない為めに、これまでは受身になっていたにしても、何もいつまでも受身になっている筈《はず》がない。向うがどう思ったって、それにどう応ずるかはこっちに在る。もう向うの自由になっていないと、こっちが決心さえすればそれまでである。借りた本は小包にしてでも返される。手紙が来ても、開けて見なければ好《い》い。尋ねて来たら、きっぱりとことわれば好い。
純一はここまで考えて、それが自分に出来るだろうかと反省して見た。そして躊躇《ちゅうちょ》した。それを極《き》めずに置く処に、一種の快味がある
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