らどうでせう。おつ母さん、キスをして下さいますか。さあ、どうです。早く極めて下さい。一つ。二つ。」
 母はよめに言つた。「どれ、立つて御覧。でないと、お前の御亭主にキスをして遣つて好いか、どうだか、分からないから。」
 ドルフはリイケの椅子の下にしやがんだ。そして長い間何やら捜す真似をしてゐた。それからやつと手柄顔に牛乳の罐を取り出して、左の拳で腰の脇を押さへながら云つた。「さあ。誰がキスをして貰ふのです。えゝ、おつ母さん。」
 母は云つた。「ドルフや、矢つ張りわたしよりリイケにキスをするが好いよ。蠅は蜜を好くものだからね。」
 ドルフは摩足《すりあし》をして、左の手で胸を押さへて、リイケに礼をした。これは上流の人の貴婦人にする礼の真似である。そして云つた。「もし。あなたのやうなお美しい方にキスをいたしても宜しうございませうか。」かう云つたかと思ふと、ドルフは女房の返事を待たずに、両腋に手を插し込んで、抱いて椅子から起たせた。そして項《うなじ》にキスをした。
 リイケはそれでは不承知と見えて、振り向いて唇と唇とを合せた。
 ドルフは云つた。「ああ、旨かつた。ミルクで煮たお米のやうだつた
前へ 次へ
全32ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング