れた櫂のやうに光る白歯が見える。哀しい追憶を隠す、重い帷《たれぬの》が開くやうに、眉の間の皺が展《の》びる。水から引き上げた網の所々《しよ/\》に白魚が光つてゐるやうに、肌の隅々から、喜が赫き出す。そんな時には、リイケはドルフの目をぢつと見て、手を拍つて笑ふのである。
 今の処では此女の両方の頬が、炉の隙間を漏る火の光で、干鮭の切身のやうに染まつてゐる。そして手為事《てしごと》を見詰めてゐる、黒い目が灰の間から赫く炭火のやうに光つてゐる。併し光つてゐるのはそればかりでは無い。耳輪の金と約束の指輪の銀とも光るのである。
 姑《しうとめ》は折々気を附ける。「お前らくにしてお出かい。足が冷えはしないかい。」穿いてゐるのは、藁を内側に附けた木沓《きぐつ》である。
「おつ母さん。難有うよ。わたくしこれでお妃様《きさきさま》のやうな心持でゐますの。」
「なんだつて。あのお妃様のやうだつて。まあ、お待よ。今にわたしが林檎を入れたお菓子を焼いて食べさせて上げるからね。その時どんなにおいしいか、どんなに好い心持がするか、その時さう云つてお聞せ。おや。ドルフが桟橋を渡つて来るやうだよ。粉と、玉子と、牛乳とを買つて来てくれる筈なのだよ。」
 がつしりした体の男が、此部屋の赤み掛かつた薄暗がりの中へ這入つて来た。物を打ち明けたやうな、笑《ゑ》ましげな顔をしてゐる。頭は殆ど天井に届きさうである。「おつ母さん、唯今。」
 男は帽子を部屋の隅に投げ遣つて、所々の隠しの中から、細心に注意して種々の物を取り出して、それを卓の上に並べてゐる。
 やつと並べてしまふと、母が云つた。「ドルフや。牛乳を忘れやしないかと思つたが、矢つ張り忘れたね。」
 ドルフは首を肩の間へ引つ込ませて、口を開《あ》いて、上下《うへした》の歯の間から舌の尖を見せて、さも当惑したらしい様子をした。又桟橋を渡つて買ひに往かなくてはならぬかと云ふ当惑である。併しこれと同時に、ドルフはそつとリイケに目食はせをした。これは笑談だと云ふ知らせの目食はせである。
 母はそれには気が附かずに、右の拳《こぶし》で左の掌を打つて云つた。「ドルフや。牛乳なしではどうにもしようがないね。わたしが町まで往かなくてはなるまいね。ほんに、お前のやうな大男を子に持つてゐて、これでは。」
「まあ、お待なさいよ。今わたしがリイケの椅子の下から、魔法で牛乳を出した
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