」かう云つて若い女は窓の下から炉の傍へ歩み寄つて、腰を卸しながら、持つてゐた小さい鍼を帽子に插した。
「それは、お前、おつ母さんでなくつて、誰が御亭主の事を思つてゐる若いお上さんの胸が分かるものかね。」
かう云ひながら、婆あさんは炉の蓋を開けて、鍋を掛けた。炉はそれが嬉しいと見えて、ゆうべ市長さんの代替《かはり》の祝に打つた大砲のやうな音をさせてゐる。それから婆あさんは指を唾《つばき》で濡らして、蝋燭の心を切つた。
部屋は小さい。穹窿《きうりう》の形になつた天井と、桶の胴のやうに木を並べて拵へた壁とを見れば、部屋は半分に割つた桶のやうだと云つても好い。壁はどこも※[#「上部は父、下部は多」、第4水準2−80−13、143−上−12]児《テエル》に包まれて、殊に炉に近い処は黒檀のやうに光つてゐる。卓が一つ、椅子が二つある。寝台《ねだい》の代りになる長持のやうな行李がある。板を二枚|中為切《なかしきり》にした白木の箱がある。箱に入れてあるのは男女の衣類で、どれも魚の臭がする。片隅には天井から網が弔《つ》つてある。其の傍には※[#「上部は父、下部は多」、第4水準2−80−13、143−下−2]児を塗つた雨外套、為事着《しごとぎ》、長靴、水を透さない鞣革の帽子、羊皮の大手袋などが弔つてある。マドンナの画額《ゑがく》の上の輪飾になつてゐるのは玉葱である。懸時計の下に掛けてあるのは、腮《あご》を貫《ぬ》き通した二十匹ばかりの鯡《にしん》で、腹が銅色《あかがねいろ》に光つてゐる。
この一切の景物《けいぶつ》は皆黄いろい蝋燭の火で照し出されてゐる。大きい影を天井に印《いん》してゐる蝋燭の火である。併しこんな物よりは若いよめのリイケの方が余程目を悦ばせる。広い肩、円い項《うなじ》、丈夫な手、ふつくりして日に焼けた頬、天鵝絨《びろうど》のやうに柔い目、きつと結んだ、薄くない唇、それに背後《うしろ》で六遍巻いてある、濃い、黒い髪。どこを見ても目を悦ばせるには十分である。併し此女の表情は亭主のドルフが傍にゐる時と、ゐない時とで違ふ。ゐない時は、やさしく、はにかんでゐるかと思ふと、なぜと云ふこともなく度々陰気な物案じに陥いる。ドルフが出てさへ来れば、情《じやう》のある口の両脇に二本の※[#「衣へんに、辟」、144−上−2]《ひだ》が出来て、上唇を上へ弔り上げる。そして水を離れて日に照さ
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