額を照すのである。
「おや、リイケどうした」と、突然ドルフが叫んだ。リイケが蒼くなつて目を瞑《つぶ》つたのである。
「あの、けふなのかも知れません。午過から少し気分が悪かつたのですが、なんだか急にひどく悪くなつて来ました。あの、子供ですが、若しわたしが助からないやうな事があつても、どうぞ可哀がつて遣つて。」
「おつ母さん。どうも胸が裂けるやうで」と、云つた切、ドルフは涙を出して溜息をしてゐる。
 トビアスは倅の肩を敲いた。「しつかりしろ。誰でもかう云ふ時も通らんではならぬのだ。」
 ネルラは涙ぐんでリイケに言つた。「リイケや。おめでたい事なのだから、我慢おしよ。貧乏に暮してゐるものは、お金持より、子供の出来るのが嬉しいのだよ。それに復活祭やニコラウス様の日に生れるのは、別段に難有いのだからね。」
 トビアスが云つた。「おい。ドルフ、お前の方が己よりは足が達者だ。プツゼル婆あさんの所へ走つて往つてくれ。留守の間《ま》は己達がリイケの介抱をして遣るから。」
 ドルフはリイケの体を抱いて暇を告げた。桟橋が急いで行く足の下にゆらめいた。
「もう往つちまやあがつた」と、トビアスが云つた。
     ――――――――――――
 夜が大鳥の翼のやうに市《いち》を掩《おほ》つてゐる。此二三日雪が降つてゐたので、地面の蒼ざめた顔が死人の顔のやうに、ドルフに見えた。丁度干潟を遠く出過ぎてゐた男が、潮の満ちて来るのを見て急いで岸の方へ走るやうに、ドルフは岸に沿うて足の力の及ぶ限り走つてゐる。それでも心臓の鼓動の早さには、足の運びがなか/\及ばない。遠い所の瓦斯《ガス》の街燈の並んでゐるのを霧に透して見れば、蝋燭を持つた葬の行列のやうである。どうしてさう思はれるのだか、ドルフ自身にも分からない。併しなんだかあの光の群の背後《うしろ》に「死」が覗つて居るやうで、ドルフはぞつとした。ふと気が附くと、忍びやかに、足音を立てぬやうに、自分の傍を通り過ぎる、ぎごちない、沈黙の人影がある。「あれは人の末期に暇乞をしに、呼ばれて往くのぢやあるまいか」と、ドルフは思つた。併し間もなく気が附いて思つた。此土地ではニコラウスの夜に、子供が小さい驢馬を拵へて、それに秣《まぐさ》だと云つて枯草や胡蘿蔔《にんじん》を添へて、炉の下に置くことになつてゐる。金のある家では、その枯草や胡蘿蔔の代りに、人形や、口で吹くハル
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