産の葡萄酒を出させて自分と倅との杯に注ぐ。二|人《にん》は利酒《きゝざけ》の上手らしく首を掉つて味つて見る。
「リイケや。もう二年立つて此祭が来ると、あそこの烟突の附根の下に小さい木沓があるのだ。」かう云つたのはトビアスである。
「さうなると愉快だらうなあ」と、ドルフが云つた。
 リイケの目の中には涙が光つてゐる。其目でドルフの顔を見てささやいた。「ほんとにあなたは好い人ねえ。」
 ドルフはリイケの傍へ摩《す》り寄つて、臂をリイケの腋に廻した。「なに、己は好い人でも悪い人でも無い。只お前を心から可哀く思つてゐる丈さ。」
 リイケも臂をドルフの腋に絡んだ。「わたし、本当にこれまで出逢つた事を考へて見ると、どうして生きてゐられるのだらうと、さう思ふの。」
「過ぎ去つた事は過ぎ去つたのだ」と、ドルフは慰めた。
「でも折々はわたし早く天に往つて、聖母様にあなたのわたしにして下すつた事を申し上げた方が好いかと思ふの。」
「おい。お前が陰気になると、己も陰気になつてしまふ。今夜のやうな晩には、御免だぜ。」
「あら。わたしちよいとでもあなたのお心持を悪くしたくはないわ。そんな事をする程なら、わたしの心の臓の血を上げた方が好いわ。」
「そんならその綺麗な歯を見せて笑つてくれ。」
「わたしなんでもあなたの云ふやうにしてよ。わたしの喜だの悲だのと云ふものは、皆あなたの物なのだから。」
「それで好い。己もお前の為にいろんなものになつて遣る。お前のお父つさん、お前の亭主、それからお前の子供だ。さうだらう。少しはお前の子供のやうな処もあるぜ。今に子供が二人になるのだ。」
 リイケは両手でドルフの頭を挾んで、両方の頬にキスをした。丁度|甘《うま》い物を味ひながらゆつくり啜るやうなキスであつた。「ねえ、あなた。生れたら、矢つ張可哀がつて下さるでせうか。」
 ドルフは誓の手を高く上げた。「天道様が証人だ。己の血を分けた子の様に可哀がつて遣る。」
 炉の火が音を立てゝ燃える。短くなつた蝋燭がぷつ/\云ひながら焔をゆらめかす。今度はネルラ婆あさんが心を切ることを忘れてゐたので、燃えさしが玉のやうに丸くなつて、どろ/\した、黄いろい燭涙が長く垂れた。トビアスの赤くなつた頭が暗い板壁をフオンにしてかつきりと画かれてゐる。其傍にはネルラが動かずに、明りを背にしてすわつてゐる。たまに頭を動かすと、明るい反射が
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング