《はんぱく》する積《つもり》で、高尾が仙台へ連れて行かれて、子孫を彼地《かのち》に残したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。

      二

 然らば奥州話にある仏眼寺の墓の主《ぬし》は何人《なんぴと》かと云ふに、これは綱宗の妾《せふ》品《しな》と云ふ女で、初から椙原氏《すぎのはらうぢ》であつたから、子孫も椙原氏を称したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。
 品は一体どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、余程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を善《よ》くし、筆札《ひつさつ》を善くし、絵画を善くした。十九歳で家督をして、六十二万石の大名たること僅《わづか》に二年。二十一歳の時、叔父|伊達兵部少輔宗勝《だてひやうぶせういうむねかつ》を中心としたイントリイグに陥いつて蟄居《ちつきよ》の身となつた。それから四十四歳で落飾《らくしよく》するまで、一子亀千代の綱村《つなむら》にだに面会することが出来なかつた。亀千代は寛文九年に十一歳で総次郎綱基《そうじらうつなもと》となり、踰《こ》えて十一年、兵部宗勝の嫡子|東市正宗興《いちのかみむねおき》の表面上の外舅《ぐわいきう》となり、宗勝を贔屓《ひいき》した酒井雅楽頭忠清《さかゐうたのかみたゞきよ》が邸《やしき》での原田甲斐《はらだかひ》の刃傷《にんじやう》事件があつて、将《まさ》に失はんとした本領を安堵《あんど》し、延宝五年に十九歳で綱村と名告《なの》つたのである。暗中の仇敵《きうてき》たる宗勝は、父子の対面に先だつこと四年、延宝七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣《せうけん》のすさびに残した書画には、往々|知過必改《ちくわひつかい》と云ふ印を用ゐた。綱宗の芸能は書画や和歌ばかりではない。蒔絵《まきゑ》を造り、陶器を作り、又刀剣をも鍛《きた》へた。私は此人が政治の上に発揮することの出来なかつた精力を、芸術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに止《とゞ》まらない。綱宗は籠居《ろうきよ》のために意気を挫《くじ》かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた硝子板《がらすいた》四百余枚を嵌《は》めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買つたと云ふことである。その豪
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