つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は荒町《あらまち》の仏眼寺《ぶつげんじ》にある、其子孫が椙原氏《すぎのはらうぢ》だと云ふことになつてゐる。
 これは大《おほい》に錯《あやま》つてゐる。伊達綱宗は万治《まんぢ》元年に歿した父|忠宗《たゞむね》の跡《あと》を継いだ。踰《こ》えて三年二月|朔《ついたち》に小石川の堀浚《ほりざらへ》を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。筋違橋《すぢかへばし》即ち今の万世橋《まんせいばし》から牛込土橋《うしごめどばし》までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺《きちじやうじ》の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今|駒込《こまごめ》にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往来《ゆきき》の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは当時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做《な》され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陥《おとし》れようとしてゐた人達の手伝があつたものと見える。綱宗は不行迹《ふぎやうせき》の廉《かど》を以《もつ》て、七月十三日にに逼塞《ひつそく》を命ぜられて、芝浜《しばはま》の屋敷から品川に遷《うつ》つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の真中程《まんなかほど》であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子|亀千代《かめちよ》が家督した。此時綱宗は二十歳、亀千代は僅《わづか》に二歳であつた。堀浚は矢張《やはり》伊達家で継続することになつたので、翌年工事を竣《をは》つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許《もと》へ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薫《かをる》と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居《ちつきよ》して以来、仙台へは往かずに、天和《てんな》三年に四十四歳で剃髪《ていはつ》して嘉心《かしん》と号し、正徳《しやうとく》元年六月六日に七十二歳で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙台へ連れて行かれる筈《はず》がない。
 文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、三股《みつまた》で斬つたと云ふ俗説を反駁
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