椙原品
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)大礼《たいれい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|忠宗《たゞむね》の跡《あと》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》はぬ

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とう/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

      一

 私が大礼《たいれい》に参列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雑誌が来たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に高尾《たかを》の後裔《こうえい》がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは伝説の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彦《おほつきふみひこ》さんがあらゆる方面から遺憾なく立証してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。
 誰でも著述に従事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ丈《だけ》人に読まれるかは問題である。著述が世に公《おほやけ》にせられると、そこには人がそれを読み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし実にそれを読む人は少数である。一般の人に読者が少いばかりではない。読書家と称して好い人だつて、其読書力には際限がある。沢山《たくさん》出る書籍を悉《こと/″\》く読むわけには行かない。そこで某雑誌に書いたやうな、歴史に趣味を有する人でも、切角《せつかく》の大槻さんの発表に心附かずにゐることになるのである。
 某雑誌の記事は奥州話《あうしうばなし》と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙台の工藤平助《くどうへいすけ》と云ふ人の女《むすめ》で、只野伊賀《たゞのいが》と云ふ人の妻になつた文子《あやこ》と云ふものゝ著述で、文子は滝沢馬琴に識《し》られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奥州話は大槻さんも知つてゐて、弁妄《べんまう》の筆を把《と》つてゐるのである。
 文子の説によれば、伊達綱宗《だてつなむね》は新吉原の娼妓《しやうぎ》高尾を身受《みうけ》して、仙台に連れて帰
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