邁《がうまい》の気象が想《おも》ひ遣《や》られるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晩年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。
綱宗には表立つた正室と云ふものがなかつた。その側《そば》にかしづいてゐた主な女は、亀千代を生んだ三沢初子《みさははつこ》と品との二人で、初子は寛永十七年生れで綱宗と同年、品は十六年生れで綱宗より一つ年上であつたらしい。二人の中で初子は家柄が好いのと後見があつたのとで、綱宗はそれを納《い》れる時正式の婚礼をした。只幕府への届が妻になつてゐなかつただけである。これは綱宗が家督する三年前で、綱宗も初子も十六歳の時であつた。それから四年目の万治二年三月八日に亀千代が生れた。堀浚《ほりざらへ》の命が伊達家に下つた一年前である。品は初子が亀千代を生んだ年に二十一歳で浜屋敷に仕へることになつて、直《すぐ》に綱宗の枕席《ちんせき》に侍《じ》したらしい。或《あるひ》は初子の産前産後の時期に寵《ちよう》を受けはじめたのではなからうか。
三
品に先《さきだ》つて綱宗に仕へた初子は、其|世系《せいけい》が立派である。六孫王|経基《つねもと》の四子|陸奥守満快《むつのかみまんくわい》の八世の孫飯島三郎|広忠《ひろたゞ》が出雲《いづも》の三沢を領して、其曾孫が三沢六郎|為長《ためなが》と名告《なの》つた。為長の十世の孫|左京亮為虎《さきやうのすけためとら》が初め尼子義久《あまこよしひさ》に、後|毛利輝元《もうりてるもと》に属して、長門《ながと》の府中に移つた。為虎の長男|頼母助為基《たのものすけためもと》が父と争つて近江に奔《はし》つた。為基に男女の子があつて、兄|権佐清長《ごんのすけきよなが》は美濃大垣《みのおほがき》の城主|氏家広定《うぢいへひろさだ》の養子になつてゐるうちに、関が原の役に際会して養父と共に細川忠興《ほそかはたゞおき》に預けられ、妹|紀伊《きい》は忠興の世話で、幕府の奥に仕へ、家康の養女|振姫《ふりひめ》の侍女になつた。紀伊が奥勤《おくづとめ》をしてゐると、元和《げんな》三年に振姫が伊達忠宗《だてたゞむね》に嫁《か》したので、紀伊も輿入《こしいれ》の供をした。此間に紀伊の兄清長は流浪して、因幡《いなば》鳥取に往つてゐて、朽木宣綱《くつきのぶつな》の女《むすめ》の腹に初子が出来た。初子は叔
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