から出てゐるのである。
五
綱宗が万治三年七月二十六日に品川の屋敷に遷《うつ》つてから、これを端緒として、所謂《いはゆる》仙台騒動が発展して、寛文十一年三月二十七日に、酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が伊達安芸《だてあき》を斬つたと云ふ絶頂まで到達した。それを綱宗は純粋な受動的態度で傍看しなくてはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、寺や百姓家を取り払はせて建て拡げたのである。綱宗は家老一人を附けられて、そこに住んだ。当時|姉婿《あねむこ》花忠茂が密《ひそか》に遣《や》つた手紙に、「御やしき中《うち》忍びにて御ありきはくるしからぬ儀と存じ候」と云つて、丁寧《ていねい》に謹慎を勧めてゐる。邸内を歩くにも忍びに歩かなくてはならぬと云ふ拘束を豪邁な性《さが》を有してゐる壮年の身に受けて、綱宗は穉《をさな》い亀千代の身の上を気遣《きづか》ひ、仙台の政治を憂慮した。その時附けられてゐた家老大町備前は、さしたる人物でなかつたらしいから、綱宗が抑鬱《よくうつ》の情を打明けて語ることを得たのは、初子のみであつただらう。それに事によつたら、品も与《あづか》つたのではあるまいか。
綱宗の夢寐《むび》の間に想《おもひ》を馳《は》せた亀千代は、万治三年から寛文八年二月まで浜屋敷にゐた。此年の二月の火事に、浜屋敷は愛宕下《あたごした》の上屋敷と共に焼けた。伊達家では上屋敷を廉立《かどた》つた時に限つて使つたものらしく、綱宗の代には上屋敷が桜田にあつて、丁度今の日比谷公園東北隅の所であつたが、綱宗は上使を受ける時などに、浜屋敷から出向いたものである。亀千代は火事に逢つて、麻布|白金台《しろかねだい》に移つた。これは万治元年に桜田を幕府から召上げられた時に賜はつた替地《かへち》である。其時これまで中屋敷と云つてゐた愛宕下を、伊達家では上屋敷にした。それも浜屋敷と共に焼けたのである。それから火事のあつた年の十二月に愛宕下上屋敷の普請が出来て、亀千代はそこへ移つた。これから伊達家では不断《ふだん》上屋敷に住むことになつたのである。
此間に亀千代は、万治三年八月に二歳で家督し、寛文四年六月には六歳で徳川家綱に謁見し、愛宕下に移つてから、同九年十二月に十一歳で元服して、総次郎|綱基《つなもと》と名告《なの》り、後延宝五年正月に綱村と改名した。
そして此《
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