この》公生涯の裏面に、綱宗の気遣《きづか》ふも無理ならぬ、暗黒なる事情が埋伏してゐた。それは前後二回に行はれた置毒《ちどく》事件である。
初のは寛文六年十一月二十七日の出来事である。是より先には亀千代は寛文二年九月に疱瘡《はうさう》をしたより外、無事でゐた。側《そば》には懐守《だきもり》と云つて、数人の侍が勤めてゐたが、十歳に足らぬ小児の事であつて見れば、実際世話をしたのは女中であらう。その主立《おもだ》つたものは鳥羽《とば》と云ふ女であつたらしい。これは江戸浪人|榊田六左衛門重能《さかきだろくざゑもんしげよし》と云ふものゝ女《むすめ》で、振姫の侍女から初子の侍女になり、遂に亀千代附になつたのである。此年には四十七歳になつてゐた。
当日亀千代の前に出る膳部《ぜんぶ》は、例によつて鬼番衆と云ふ近臣が試食した。それが二三人即死した。米山兵左衛門、千田平蔵などと云ふものである。そこで、中間《ちゆうげん》一人、犬二頭に食はせて見た。それも皆死んだ。後見|伊達兵部少輔《だてひやうぶせういう》は報《しらせ》を聞いて、熊田治兵衛と云ふものを浜屋敷に遣つて、医師|河野《かうの》道円と其子三人とを殺させた。同時に膳番以下七八人の男と女中十人|許《ばかり》とも殺されたさうである。此時女中鳥羽は毒のあつた膳部の周囲を立ち廻つてゐたとかのために、仙台へ遣つて大条玄蕃《だいでうげんば》に預けられた。鳥羽は道円に舟で饗応《きやうおう》せられたことなどがあるから、果して道円が毒を盛つたとすると、鳥羽に疑はしい節《ふし》がないでもないが、後に仙台で扶持《ふち》を受けて優遇せられてゐたことを思へば罪の有無が明かでなくなる。又道円を殺させた兵部が毒を盛らせたとすると、其目的はどこにあつただらうか。亀千代が死んでも、初子の生んだ亀千代の弟があるから、兵部の子|東市正《いちのかみ》に宗家《そうけ》を襲《つ》がせることは出来まい。然らば宗家の封《ほう》を削らせて、我家の禄を増させようとでもしたのだらうか。これは亀千代が八歳の時の出来事である。
六
二度目の置毒事件は寛文八年に白金台の屋敷で起つた。亀千代が浜屋敷で火事に逢つて移つて来てから、愛宕下の新築に入るまでの間の出来事である。頃は八月某日に原田甲斐の世話で小姓《こしやう》になつてゐた塩沢丹三郎と云ふものが、鱸《すゞき》に毒を入れて
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