見えてゐる。或はおもふに道聽塗説の越後は丹後の誤か。
八代は通稱金藏で、天保三年七月十六日に六十一歳で歿した。法諡《ほふし》梅翁日實居士である。九代は又三右衞門と稱し、後に三|輔《すけ》と改めた。素細工頭《もとさいくがしら》支配玉屋市左衞門の子である。明治十年十一月十一日に六十四歳で歿し、明了軒唯譽深廣連海居士と法諡《ほふし》せられた。十代三右衞門、後の稱三左衞門は明治二十年二月二十六日に歿し、榮壽軒梵譽利貞至道居士と法諡せられた。此榮壽軒の後を襲いだ十一代三右衞門が今の蒼夫さんで、大正五年に七十一歳になつてゐる。その丹後掾《たんごのじよう》と稱したのは前代の勅賜に本づく。
天保元年に眞志屋十二代の五郎兵衞清常が歿した時、増田氏の金澤には七十九歳の自適齋東里、五十九歳の梅翁、三十四歳の寶龍院依心、十七歳の明了軒深廣、十歳の榮壽軒利貞が並存してゐた筈である。嘉永七年に最後の眞志屋名前人五郎作が五郎右衞門と改稱した時に至ると、明了軒が四十一歳、榮壽軒が三十四歳、弘化二年生の蒼夫さんが九歳になつてゐた筈である。
わたくしは前《さき》に、眞志屋最後の名前人五郎作改め五郎兵衞は定五郎ではなからうかと云つた。それは定五郎が眞志屋文書に載する所の最後の家督相續者らしく見えるからであつた。しかし更に考ふるに、此定五郎は幾《いくば》くならずして廢《や》められ、天保弘化の間に明了軒がこれに代つてゐて、所謂五郎作改五郎兵衞は明了軒自身であつたかも知れない。
眞志屋の自立してゐた間の菓子店は、既に屡《しば/\》云つたやうに新石町、金澤の店は本石町二丁目西角であつた。
二十九
わたくしは駒込願行寺に増田氏の墓を訪うた。第一高等學校寄宿舍の西、巷《こうぢ》に面した石垣の新に築かれてゐるのが此寺である。露次を曲つて南向の門に入ると、左に大いなる鑄鐵の井欄《せいらん》を見る。井欄の前面に掌大《しやうだい》の凸字《とつじ》を以て金澤と記してある。恐らくは増田氏の盛時のかたみであらう。
墓は門を入つて右に折れて往く塋域《えいゐき》にある。上に佛像を安置した墓の隣に、屋盖形《やねがた》のある石が二基並んで、南に面して立つてゐる。臺石には金澤屋と彫《ゑ》り、墓には正面から向つて左の面に及んで、許多《あまた》の戒名が列記してある。讀んで行く間に、明了軒の諡《おくりな》が系譜には運海と書してあつたのに、此には連海に作つてあるのに氣が付いた。金石文字は人の意を用ゐるものだから、或は系譜の方が誤ではなからうか。
拜し畢つて歸る時、わたくしは曾て面《おもて》を識つてゐる女子に逢つた。恐くは願行寺の住職の妻であらう。此女子は曩《さき》の日わたくしに細木香以の墓ををしへてくれた人である。
「けふは金澤の墓へまゐりました。先日金澤の老人に逢つて、先祖の墓がこちらにあるのを聞いたものですから。」とわたくしは云つた。
「さやうですか。あれはこちらの古い檀家《だんか》だと承はつてゐます。昔の御商賣は何でございましたでせう。」
「菓子屋でした。徳川家の菓子の御用を勤めたものです。維新前の菓子屋の番附には金澤丹後が東の大關になつてゐて、風月堂なんぞは西の幕の内の末の方に出てゐます。本郷の菓子屋では、岡野榮泉だの、藤村だの、船橋屋織江だのが載つてゐますが、皆|幕外《まくそと》です。なんでも金澤は將軍家や大名ばかりを得意先にしてゐたものだから、維新の時に得意先と一しよに滅びたのださうです。今の老人の細君は木場の萬和の女《むすめ》です。里親の萬屋和助なんぞも、維新前の金持の番附には幕の内に這入《はひ》つてゐました。」
わたくしはこんな話をして女子に別を告げた。美しい怜悧《れいり》らしい言語の明晰《めいせき》な女子である。
増田氏歴代の中で一人谷中長運寺に葬られたものがあると、わたくしは蒼夫さんに聞いた。家に歸つてから、手近い書に就いて谷中の寺を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]したが、長運寺の名は容易《たやす》く見附けられなかつた。そこでわたくしは錯《あやま》り聞いたかも知れぬと思つた。後に武田信賢著墓所集覽で谷中長運寺を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]出して往訪したが、増田氏の墓は無かつた。寺は渡邊治右衞門別莊の邊から一乘寺の辻へ拔ける狹い町の中程にある。
蒼夫さんはわたくしの家を訪ふ約束をしてゐるから、若し再會したら重ねて長運寺の事をも問ひ質《たゞ》して見よう。
三十
諸書の載する所の壽阿彌の傳には、西村、江間、長島の三つの氏を列擧して、曾て其交互の關係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今淺井平八郎さんの齎《もたら》し來つた眞志屋文書に據つて、記載のもつれを解きほぐし、明《あきら》め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜を閲《けみ》し談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ち截《き》つた維新の期に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略《ほゞ》此《こゝ》に盡きた。
然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。
淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。袱紗《ふくさ》に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太《はなは》だ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲で綴《と》ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十《やそ》のちまたの門《かど》の松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「八十《やそ》になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。
此二句は書估《しよこ》活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ枕團子《まくらだんご》をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。
壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月|晦日《みそか》の作、歳旦の句は嘉永元年正月|朔《ついたち》の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病《やまひ》革《すみやか》なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。
月今宵は少くも灑脱《しやだつ》の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の百足《もゝた》らず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。
短册の手迹《しゆせき》を見るに、壽阿彌は能書であつた。字に媚※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《びぶ》の態があつて、老人の書らしくは見えない。壽の一字を署したのは壽阿彌の省略であらう。壽松の號は他に所見が無い。
三十一
連歌師としての壽阿彌は里村昌逸の門人であつたかと思はれる。わたくしは眞志屋の遺物中にある連歌の方式を書いた無題號の寫本一册と、弘化嘉永間の某年正月十一日柳營之御會と題した連歌の卷數册とを見た。無題號の寫本は表紙に「如是縁庵《によぜえんあん》」と書し、「壽阿彌陀佛印」の朱記がある。卷尾には「享保八年|癸卯《きばう》七月七日於京都、里村昌億翁以本書、乾正豪寫之」と云ふ奧書があつて、其次の餘白に、「先師次第」と題した略系と「玄川先祖より次第」と題した略系とが書き添へてある。連歌の卷々には左大臣として徳川|家慶《いへよし》の句が入つてゐる。そして嘉永元年前のものには必ず壽阿彌が名を列して居る。
先師次第にはかう記してある。「宗祇《そうぎ》、宗長、宗牧、里村元祖|昌休《しやうきう》、紹巴《せうは》、里村二代|昌叱《しやうしつ》、三代|昌琢《しやうたく》、四代昌程、弟祖白、五代昌陸、六代昌億、七代|昌迪《しやうてき》、八代昌桂、九代昌逸、十代昌同」である。玄川先祖より次第にはかう記してある。「法眼《はふげん》紹巴、同《おなじく》玄仍《げんじよう》、同玄陳、同玄俊、玄心、紹尹《せうゐん》、玄立、玄立、法橋《ほつけう》玄川寛政六年六月二十日法橋」である。
二種の略系は里村兩家の承統次第を示したものである。宗家昌叱の裔《すゑ》は世《よゝ》京都に住み、分家玄仍の裔は世江戸石原に住んでゐた。しかし後には兩家共京住ひになつたらしい。
わたくしは此略系を以て壽阿彌の書いたものとして、宗家の次第に先師と書したことに注目する。里村宗家は恐くは壽阿彌の師家であつたのだらう。然るに十代昌同は壽阿彌の同僚で、連歌の卷々に名を列してゐる。其「先師」は一代を溯《さかのぼ》つて故人昌逸とすべきであらう。昌逸昌同共に「百石二十人扶持京住居」と武鑑に註してある。
壽阿彌の連歌師としての同僚中、坂昌功は壽阿彌と親しかつたらしい。眞志屋の遺物中に、「壽阿彌の手向《たむけ》に」と端書して一句を書し、下に「昌功」と署した短册《たんざく》がある。坂昌功は初め淺草黒船町河岸に住し、後根岸に遷つた。句は秋季である。しかし録するに足らない。川上宗壽が連歌を以て壽阿彌に交つたことは、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》に遣つた手紙に見えてゐた。
眞志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づつ三季に渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鐵の時寛政五年に暫くの内三人半扶持を減して三人半扶持にせられたことは既に記した。眞志屋文書中の「文化八年|未《ひつじの》正月|御扶持渡通帳《おんふちわたしかよひちやう》」に據るに、此後文化五年|戊辰《ぼしん》に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持|被下置《くだしおかる》」と云ふことになつた。これは十代|若《もし》くは十一代の時の事である。眞志屋文書はこれより後の記載を闕《か》いてゐる。然るに金澤蒼夫さんの所藏の文書に據れば、天保七年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。
三十二
西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、世《よゝ》水戸家の用達であつたことは、夙《はや》く海録の記する所である。しかしわたくしは眞志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金澤蒼夫さんを訪うた日の事である。
わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衞、元和中より麪粉類《めんふんるゐ》御用相勤」云々《しか/″\》の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻《たゞ》にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく遲れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。
金澤氏六代の増田東里には、弊帚集《へいさうしふ》と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒《にはか》に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の栗山潜鋒《くりやませんぽう》に弊帚集六卷があつて火災に罹《かゝ》り
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