十一人中に「法譽|知性大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、222−下−19]《ちしやうだいし》、寛政十年|戊午《ぼご》八月二日」と云ふ人がある。十代の實祖母としてあるから、了蓮の祖母であらう。此知性の父は「玄譽幽本居士、寶暦九年|己卯《きばう》三月十六日」、母は「深譽幽妙大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、222−下−229]、寶暦五年|乙亥《おつがい》十一月五日」としてある。更にこれより溯《さかのぼ》つて、「月窓|妙珊大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−上−1]《めうさんだいし》、寛保元年|辛酉《しんいう》十月二十四日」がある。これは知性の祖としてあるから、祖母ではなからうか。以上を知性系の人物とする。然るに幽本、幽妙の子、了蓮の父母は考へることが出來ない。
十一人中に又「貞譽誠範居士、文政五年|壬午《じんご》五月二十日」と云ふ人がある。即ち過去帳別本に讀むべからざる記註を見る戒名である。わたくしは其「何代五郎兵衞實父」を「九代」と讀まむと欲した。殘餘の闕文《けつぶん》は月字の上の三字で、わたくしは今これを讀んで「同年五月」となさむと欲する。何故と云ふに、別本には誠範の右に「蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−上−10]、文政五年|壬午《じんご》八月」があつたから、此《かく》の如くに讀むときは、此彫文と符《ふ》するからである。果して誠範を九代一鐵の父長島五郎兵衞だとすると、此名の左隣にある別本の所謂九代の祖父「覺譽泰了居士、明和六年|己丑《きちう》七月四日」は、誠範の父であらう。又此列の最右翼に居る「範叟道規庵主《はんそうだうきあんしゆ》、元文三年|戊午《ぼご》八月八日」は、別本に泰了縁家の祖と註してあるから、此系の最も古い人に當り、又此列の最左翼に居る壽阿彌の父「頓譽《とんよ》淨岸居士、寛政四年|壬子《じんし》八月九日」は、泰了と利右衞門の稱を同じうしてゐるから、泰了の子かと推せられる。以上を誠範系の人物とする。江間氏と長島氏との連繋は、此誠範系の上に存するのである。
此大墓石と共に南面して、其西隣に小墓石がある。臺石に長島氏と彫《ゑ》り、上に四人の法諡《ほふし》が並記してある。二人は女子、二人は小兒である。「馨譽慧光大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−下−1]《けいよゑくわうだいし》、文政六年|癸未《きび》十月二十七日」は別本に十二代五郎兵衞※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−下−2]、實は叔母《しゆくぼ》と註してある。「誠月妙貞大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−下−3]、安政三年|丙辰《へいしん》七月十二日」は別本に五郎作母、六十四歳と註してある。小兒は勇雪、了智の二童子で、了智は別本に十二代五郎兵衞實弟と註してある。要するに此四人は皆十二代清常の近親らしいから、所謂五郎作母も清常の初稱五郎作の母と解すべきであるかも知れない。別本には猶《なほ》、次に記すべき墓に彫つてある蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−下−8]の下《もと》に、十二代五郎兵衞養母と註してある。清常には母かと覺しき妙貞があり、叔母慧光があつて、それが西村氏に養はれてから定生を養母とし、叔母慧光を姉とするに至つた。以上を清常系の人物として、これに別本に見えてゐる慧光の實母を加へなくてはならない。即ち深川靈岸寺開山堂に葬られたと云ふ「華開生悟信女《けかいしやうごしんによ》、享和二年|壬戌《じんじゆつ》十二月六日」が其人である。しかし清常の父の誰なるかは遂に考へることが出來ない。
二十六
次に遠く西に離れて、茱萸《ぐみ》の木の蔭に稍《やゝ》新しい墓石があつて、これも臺石に長島氏と彫つてある。墓表には男女二人の戒名が列記してある。男女の戒名は、「淨譽了蓮居士、寛政八|辰天《しんてん》七月初七日」と「蓮譽定生大※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、223−下−20]、文政五|午天《ごてん》八月二十日」とで、其中間に後に「遠譽清久居士、明治三十九年十二月十三日」の一行が彫り添へてある。了蓮は過去帳別本の十代五郎作、定生は同本の十二代五郎兵衞養母、清久は師岡久次郎即ち高野氏石の亡夫である。
定生には父母があつて過去帳別本に見えてゐる。父は「本住院活法日觀信士、天明四年|甲辰《かふしん》十二月十七日」、母は「靈照院|妙慧日耀信女《めうゑにちえうしんによ》、文化十二年|乙亥《おつがい》正月十三日」で、並《ならび》に橋場長照寺に葬られた。日觀の俗名は別本に小林彌右衞門と註してある。然るに了蓮の祖母知性の母幽妙の下にも、別本に小林彌右衞門妻の註がある。此二箇所に見えてゐる小林彌右衞門は同人であらうか、又は父子襲名であらうか。又定生の外祖母と稱するものも別本に見えてゐる。「貞圓妙達|比丘尼《びくに》、天明七年|丁未《ていび》八月十一日」と書し、深川佐賀町一向宗と註してあるものが即《すなはち》是《これ》である。
了蓮と定生との關係、清久の名を其間に厠《まじ》へた理由は、過去帳別本の記載に由つて明にすることが出來ない。師岡氏未亡人は或はわたくしに教へてくれるであらうか。
わたくしが光照院の墓の文字を讀んでゐるうちに、日は漸《やうや》く暮れむとした。わたくしのために香華を墓に供へた媼《おうな》は、「蝋燭《らうそく》を點《とぼ》してまゐりませうか」と云つた。「なに、もう濟んだから好《い》い」と云つて、わたくしは光照院を辭した。しかし江間、長島の親戚關係は、到底墓表と過去帳とに藉《よ》つて、明め得べきものでは無かつた。壽阿彌の母、壽阿彌の妹、壽阿彌の妹の夫の誰たるを審《つまびらか》にするに至らなかつたのは、わたくしの最も遺憾とする所である。
わたくしは新石町の菓子商眞志屋が文政の末から衰運に向つて、一たび二本傳次に寄り、又轉じて金澤丹後に寄つて僅に自ら支へたことを記した。眞志屋は衰へて二本に寄り、二本が眞志屋と倶《とも》に衰へて又金澤に寄つたと云ふ此金澤は、そもそもどう云ふ家であらう。
わたくしが此「壽阿彌の手紙」を新聞に公にするのを見て、或日金澤|蒼夫《さうふ》と云ふ人がわたくしに音信を通じた。わたくしは蒼夫さんを白金臺町の家に訪うて交を結んだ。蒼夫さんは最後の金澤丹後で、祖父明了軒以來西村氏の後を承け、眞志屋五郎兵衞の名義を以て水戸家に菓子を調進した人である。
初めわたくしは澀江抽齋傳中の壽阿彌の事蹟を補ふに、其|尺牘《せきどく》一則を以てしようとした。然るに料《はか》らずも物語は物語を生んで、斷えむと欲しては又續き、此《こゝ》に金澤氏に説き及ぼさざることを得ざるに至つた。わたくしは此最後の丹後、眞志屋の鑑札を佩《お》びて維新前まで水戸邸の門を潜つた最後の丹後をまのあたり見て、これを緘默《かんもく》に附するに忍びぬからである。
二十七
眞志屋と云ふ難破船が最後に漕《こ》ぎ寄せた港は金澤丹後方である。當時眞志屋が金澤氏に寄つた表向の形式は「同居」で、其同居人は初め五郎作と稱し、後嘉永七年即安政元年に至つて五郎兵衞と改めたことが、眞志屋文書に徴して知られる。文書の收むる所は改稱の願書で、其願が聽許《ていきよ》せられたか否かは不明であるが、此《かく》の如き願が拒止せらるべきではなささうである。
しかし此五郎作の五郎兵衞は必ずしも實に金澤氏の家に居つたとは見られない。現に金澤|蒼夫《さうふ》さんは此の如き寓公《ぐうこう》の居つたことを聞き傳へてゐない。さうして見れば、單に寄寓したるものゝ如くに粧ひ成して、公邊を取り繕つたのであつたかも知れない。
蒼夫さんの知つてゐる所を以てすれば、金澤氏が眞志屋の遺業を繼承したのは、蒼夫の祖父明了軒の代の事である。これより以後、金澤氏は江戸城に菓子を調進するためには金澤丹後の名を以て鑑札を受け、水戸邸に調進するためには眞志屋五郎兵衞の名を以て鑑札を受けた。金澤氏の年々受け得た所の二樣の鑑札は、蒼夫さんの家の筐《はこ》に滿ちてゐる。鑑札は白木の札に墨書して、烙印《らくいん》を押したものである。札は孔《あな》を穿《うが》ち緒《を》を貫き、覆《おほ》ふに革袋《かはぶくろ》を以てしてある。革袋は黒の漆塗で、その水戸家から受けたものには、眞志の二字が朱書してある。
想ふに授受が眞志屋と金澤氏との間に行はれた初には、縱《よし》や實に寓公たらぬまでも、眞志屋の名前人が立てられてゐたが、後に至つては特にこれを立つることを須《もち》ゐなかつたのではなからうか。兎に角金澤氏の代々の當主は、徳川將軍家に對しては金澤丹後たり、水戸宰相家に對しては眞志屋五郎兵衞たることを得たのである。「まあ株を買つたやうなものだつたのでせう」と蒼夫さんは云ふ。今の語を以て言へば、此授受の形式は遂に「併合」に歸したのである。
眞志屋の末裔《ばつえい》が二本に寄り、金澤に寄つたのは、啻《たゞ》に同業の好《よしみ》があつたのみではなかつたらしい。二本は眞志屋文書に「親類麹町二本傳次方」と云つてある。又眞志屋の相續人たるべき定五郎は「右傳次方私從弟定五郎」と云つてある。皆眞志屋五郎兵衞が此の如くに謂つたのである。金澤氏は果して眞志屋の親戚であつたか否か不明であるが、試に系譜を檢するに、貞享中に歿した初代相安院清頓の下に、「長島※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]校」に嫁した女子がある。此《この》壻《むこ》は或は眞志屋の一族長島氏の人であつたのではなからうか。
金澤氏は本《もと》増田氏であつた。豐臣時代に大和國郡山《やまとのくにこほりやま》の城主であつた増田長盛の支族で、曾《かつ》て加賀國金澤に住したために、商家となるに及んで金澤屋と號し、後單に金澤と云つたのださうである。系譜の載する所の始祖は又兵衞と稱した。相摸國三浦郡蘆名村に生れ、江戸に入つて品川町に居り、魚を鬻《ひさ》ぐを業とした。蒼夫さんの所有の過去帳に、「相安院淨譽清頓信士、貞享五年五月二十五日」と記してある。
二十八
増田氏の二代三右衞門は、享保四年五月九日に五十八歳で歿した。法諡《ほふし》實相院頓譽淨圓居士である。此人が菓子商の株を買つた。
三代も亦同じく三右衞門と稱し、享保八年七月二十八日に三十七歳で歿した。法諡|寂苑院《じやくをんゐん》淨譽玄清居士である。四代三右衞門の覺了院性譽|一鎚《いつつゐ》自聞居士は、明和六年四月二十四日に四十六歳で歿した。五代三右衞門の自適齋眞譽東里威性居士は、天保六年十月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も學殖あり最も文事ある人であつた。所謂《いはゆる》田威、字《あざな》は伯孚《はくふ》、別號は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙齋高岡秀成、字は實甫《じつぽ》と云ふものが壽序を作つて贈つた。二本傳次の妻は東里が長女の第八女であつた。眞志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一條のみを以てしても證するに足るのである。六代三右衞門はわたくしの閲《けみ》した系譜に載せて無い。増田氏は世《よゝ》駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衞門は天保十一年十月二日に四十四歳で歿し、寶龍院乘譽依心連戒居士と法諡《ほふし》せられた。
按《あん》ずるに此頃に至るまでは、金澤三右衞門は丹後と稱せずして越後と稱したのではなからうか。文化の末に金澤瀬兵衞と云ふものが長崎|奉行《ぶぎやう》を勤めてゐたが、此人は叙爵の時|越後守《ゑちごのかみ》となるべきを、菓子商の稱を避けて百官名を受け、大藏少輔《おほくらせういう》にせられたと、大郷信齋の道聽塗説《どうていとせつ》に
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