壽阿彌の手紙
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)澀江抽齋《しぶえちうさい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|定所《ていしよ》の

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 わたくしは澀江抽齋《しぶえちうさい》の事蹟を書いた時、抽齋の父|定所《ていしよ》の友で、抽齋に劇神仙《げきしんせん》の號を讓つた壽阿彌陀佛《じゆあみだぶつ》の事に言ひ及んだ。そして壽阿彌が文章を善《よ》くした證據として其《その》手紙を引用した。
 壽阿彌《じゆあみ》の手紙は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》と云ふ人に宛《あ》てたものであつた。わたくしは初め※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の何人たるかを知らぬので、二三の友人に問ひ合せたが明答を得なかつた。そこで※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は誰《たれ》かわからぬと書いた。
 さうすると早速其人は駿河《するが》の桑原※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂であらうと云つて、友人|賀古鶴所《がこつるど》さんの許《もと》に報じてくれた人がある。それは二宮孤松《にのみやこしよう》さんである。二宮氏は五山堂詩話の中の詩を記憶してゐたのである。
 わたくしは書庫から五山堂詩話を出して見た。五山は其詩話の正篇に於《おい》て、一たび※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂を説いて詩二首を擧げ、再び説いて、又四首を擧げ、後補遺に於て、三たび説いて一首を擧げてゐる。詩の采録《さいろく》を經たるもの通計七首である。そして最初にかう云ふ人物評が下してある。「公圭書法嫻雅《こうけいしよはふはかんが》、兼善音律《かねておんりつをよくす》、其人温厚謙恪《そのひとはをんこうけんかく》、一望而知爲君子《いちばうしてくんしたるをしる》」と云ふのである。公圭は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の字《あざな》である。
 次で置鹽棠園《おしほたうゑん》さんの手紙が來て、わたくしは※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の事を一層|精《くは》しく知ることが出來た。
 桑原※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂、名は正瑞《せいずゐ》、字《あざな》は公圭《こうけい》、通稱は古作《こさく》である。天明四年に生れ、天保八年六月十八日に歿した。桑原氏は駿河國《するがのくに》島田驛の素封家《そほうか》で、徳川幕府時代には東海道十三驛の取締を命ぜられ、兼て引替御用を勤めてゐた。引替御用とは爲換方《かはせかた》を謂《い》ふのである。桑原氏が後に産を傾けたのは此引換のためださうである。
 菊池五山は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の詩と書と音律とを稱してゐる。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は詩を以て梁川星巖《やながはせいがん》、柏木如亭《かしはぎじよてい》及五山と交つた。書は子昂《すがう》を宗《そう》とし江戸の佐野東洲の教を受けたらしい。又|畫《ゑ》をも學んで、崋山《くわざん》門下の福田半香、その他|勾田臺嶺《まがたたいれい》、高久隆古《たかひさりゆうこ》等と交つた。
 ※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の妻は置鹽蘆庵《おしほろあん》の二女ためで、石川|依平《よりひら》の門に入つて和歌を學んだ。蘆庵は棠園さんの五世の祖である。
 ※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の子は長を霜崖《さうがい》と云ふ。名は正旭《せいきよく》である。書を善《よ》くした。次を桂叢《けいそう》と云ふ。名は正望《せいばう》である。畫を善くした。桂叢の墓誌銘は齋藤拙堂が撰《えら》んだ。
 桑原氏の今の主人は喜代平さんと稱して※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の玄孫に當つてゐる。戸籍は島田町にあつて、町の北半里|許《ばかり》の傳心寺に住んでゐる。傳心寺は桑原氏が獨力を以て建立《こんりふ》した禪寺で、寺祿《じろく》をも有してゐる。桑原氏|累代《るゐだい》の菩提所《ぼだいしよ》である。
 以上の事實は棠園さんの手書中より抄出したものである。棠園さんは置鹽氏《おしほうぢ》、名は維裕《ゐゆう》、字《あざな》は季餘《きよ》、通稱は藤四郎である。居る所を聽雲樓《ていうんろう》と云ふ。川田|甕江《をうこう》の門人で、明治三十三年に靜岡縣|周智《すち》郡長から伊勢神宮の神官に轉じた。今は山田市|岩淵町《いはぶちちやう》に住んでゐる。わたくしの舊知内田|魯庵《ろあん》さんは棠園さんの妻の姪夫《めひむこ》ださうである。
 わたくしは壽阿彌の手紙に由つて棠園さんと相識になつたのを喜んだ。

     二

 壽阿彌の手紙の宛名《あてな》桑原※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が何人かと云ふことを、二宮孤松さんに由つて略《ほゞ》知ることが出來、置鹽棠園さんに由つて委《くはし》く知ることが出來たので、わたくしは正誤文を新聞に出した。然《しか》るに正誤文に偶《たま/\》誤字があつた。市河三陽さんは此誤字を正してくれるためにわたくしに書を寄せた。
 三陽さんは祖父米庵が※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂と交はつてゐたので、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の名を知つてゐた。米庵の西征日乘中《せいせいにちじようちゆう》癸亥《きがい》十月十七日の條に、「十七日、到島田、訪桑原※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂已宿」と記してある。癸亥は享和三年で、安永八年生れの米庵が二十五歳、天明四年生の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が二十歳の時である。客も主人も壯年であつた。わたくしは主客の關係を詳《つまびらか》にせぬが、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の詩を詩話中に收めた菊池五山が米庵の父寛齋の門人であつたことを思へば、米庵は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂がためには、啻《たゞ》に己《おのれ》より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、頗《すこぶ》る貴《たふと》い賓客であつただらう。
 三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが澀江抽齋の死を記するに當つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽齋と米庵とは共に安政五年の虎列拉《コレラ》に侵された。抽齋は文化二年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは略《ほゞ》抽齋の病状を悉《つく》してゐて、その虎列拉《コレラ》たることを斷じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。
 わたくしの推測は幸《さいはひ》にして誤でなかつた。三陽さんの言ふ所に從へば、神惟徳《しんゐとく》の米庵略傳に下《しも》の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てゝ夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、發熱|劇甚《げきじん》にして、良醫|交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》來《きた》り診《しん》し苦心治療を加ふれど効驗なく、年八十にして七月十八日|溘然《かふぜん》屬※[#「糸+廣」、第3水準1−90−23]《ぞくくわう》の哀悼《あいたう》を至す」と云ふのである。又當時虎列拉に死した人々の番附が發刊せられた。三陽さんは其二種を藏してゐるが、並《ならび》に皆米庵を載せてゐるさうである。
 壽阿彌の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂に遣《や》つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勸めた。わたくしも此手紙の印刷に附する價値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文藝史上にも尊重すべき資料であつて、且讀んで興味あるべきものだからである。
 手紙には考ふべき人物九人と※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の親戚《しんせき》知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には大窪《おほくぼ》天民、菊池五山、石野|雲嶺《うんれい》がある。歌人には岸本|弓弦《ゆづる》がある。畫家には喜多可庵がある。茶人には川上宗壽がある。醫師には分家名倉がある。俳優には四世坂東彦三郎がある。手紙を書いた壽阿彌と其親戚と、手紙を受けた※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂と其親戚知人との外、此等《これら》の人物の事蹟の上に多少の光明を投射する一篇の文章に、史料としての價値があると云ふことは、何人も否定することが出來ぬであらう。

     三

 わたくしは壽阿彌の手紙に註を加へて印刷に付することにしようかとも思つた。しかし文政頃の手紙の文は、縱《たと》ひ興味のある事が巧に書いてあつても、今の人には讀み易くは無い。忍んでこれを讀むとしたところで、許多《あまた》の敬語や慣用語が邪魔になつてその煩はしきに堪へない。ましてやそれが手紙にめづらしい長文なのだから、わたくしは遠慮しなくてはならぬやうに思つて差し控へた。
 そしてわたくしは全文を載せる代りに筋書を作つて出すことにした。以下が其筋書である。
 手紙には最初に二字程下げて、長文と云ふことに就いてのことわりが言つてある。これだけは全文を此に寫し出す。「いつも餘り長い手紙にてかさばり候故《そろゆゑ》、當年は罫紙《けいし》に認候《したゝめそろ》。御免可被下候《ごめんくださるべくそろ》。」わたくしは此ことわりを面白く思ふ。當年はと云つたのは、年が改まつてから始めて遣る手紙だからである。其年が文政十一年であることは、下《しも》に明證がある。六十歳の壽阿彌が四十五歳の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂に書いて遣つたのである。
 壽阿彌と※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂との交《まじはり》は餘程久しいものであつたらしいが、其|詳《つまびらか》なることを知らない。只《たゞ》此手紙の書かれた時より二年前に、壽阿彌が※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の家に泊つてゐたことがある。山内香雪が市河米庵に隨つて有馬の温泉に浴した紀行中、文政九年|丙戌《へいじゆつ》二月三日の條に、「二日、藤枝に至り、荷溪《かけい》また雲嶺《うんれい》を問ふ、到島田問※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂、壽阿彌|爲客《かくとなり》こゝにあり、掛川仕立屋投宿」と云つてある。歸途に米庵等は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の家に宿したが、只「主島田※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂」とのみ記してある。これは四月十八日の事である。紀行は市河三陽さんが抄出してくれた。
 荷溪は五山堂詩話に出てゐる。「藤枝※[#「蒙−くさかんむり」、196−下−16]荷溪《ふぢえだのちようかけいは》。碧字風曉《へきあざなはふうげうなり》。才調獨絶《さいてふひとりぜつす》。工畫能詩《ゑをたくみにししをよくす》。(中略)於詩意期上乘《しのいにおけるじやうじようをきす》。是以生平所作《ここをもつてせいへいつくるところは》。多不慊己意《おほくおのれのいにあきたらず》。撕毀摧燒《せいきさいせうして》。留者無幾《とゞめしものいくばくもなし》。」菊池五山は西駿《せいしゆん》の知己二人として、荷溪と※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂とを並記してゐる。
 次に書中に見えてゐるのは、不音《ぶいん》のわび、時候の挨拶《あいさつ》、問安で、其末に「貧道無異に勤行仕候間《ごんぎやうつかまつりそろあひだ》乍憚《はゞかりながら》御掛念被下
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