間敷候《ごけねんくださるまじくそろ》」とある。勤行と書いたのは剃髮後《ていはつご》だからである。當時の武鑑を閲《けみ》するに、連歌師の部に淺草日輪寺|其阿《きあ》と云ふものが載せてあつて、壽阿彌は執筆日輪寺|内《うち》壽阿|曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]《どんてう》と記してある。原來《ぐわんらい》時宗遊行派の阿彌號は相摸國高座郡《さがみのくにかうざごほり》藤澤の清淨光寺から出すもので、江戸では淺草芝崎町日輪寺が其出張所になつてゐた。想ふに新石町《しんこくちやう》の菓子商で眞志屋五郎作と云つてゐた此人は、壽阿彌號を受けた後に、去つて日輪寺其阿の許《もと》に寓《ぐう》したのではあるまいか。
 壽阿彌は單に剃髮したばかりでは無い。僧衣を著けて托鉢《たくはつ》にさへ出た。托鉢に出たのは某年正月十七日が始で、先づ二代目|烏亭焉馬《うていえんば》の八丁堀の家の門《かど》に立つたさうである。江戸町與力の倅《せがれ》山崎賞次郎が焉馬《えんば》の名を襲いだのは、文政十一年だと云ふことで、月日は不詳である。わたくしが推察するに、焉馬は文政十一年の元日から襲名したので、其月十七日に壽阿彌は托鉢に出て、先づ焉馬を驚したのではあるまいか。若《も》しさうだとすると、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂に遣る此《この》遲馳《おくればせ》の年始状を書いたのは、始て托鉢に出た翌月であらう。此手紙は二月十九日の日附だからである。
 壽阿彌が托鉢に出て、焉馬の門に立つた時の事は、假名垣魯文《かながきろぶん》が書いて、明治二十三年一月二十二日の歌舞伎新報に出した。わたくしの手許《てもと》には鈴木|春浦《しゆんぽ》さんの寫してくれたものがある。
 壽阿彌は焉馬の門に立つて、七代目團十郎の聲色で「厭離焉馬《おんりえんば》、欣求淨土《ごんぐじやうど》、壽阿彌陀佛《じゆあみだぶつ》々々々々々」と唱へた。
 深川の銀馬と云ふ弟子が主人に、「怪しい坊主が來て焉馬がどうのかうのと云つてゐます」と告げた。
 焉馬は棒を持つて玄關に出て、「なんだ」と叫んだ。
 壽阿彌は數歩退いて笠《かさ》を取つた。
「先生惡い洒落《しやれ》だ」と、焉馬は棒を投げた。「まあ、ちよつとお通下さい。」
「いや。けふは修行中の草鞋穿《わらぢばき》だから御免|蒙《かうむ》る。焉馬あつたら又|逢《あ》はう。」云《い》ひ畢《をは》つて壽阿彌は、岡崎町の地藏橋の方へ、錫杖《しやくぢやう》を衝《つ》き鳴らして去つたと云ふのである。
 魯文の記事には多少の文飾もあらうが、壽阿彌の剃髮、壽阿彌の勤行がどんなものであつたかは、大概此出來事によつて想見することが出來よう。寛政三年生で當時三十八歳の戲作者《げさくしや》焉馬が、壽阿彌のためには自分の贔屓《ひいき》にして遣《や》る末輩であつたことは論を須《ま》たない。

     四

 次に「大下の岳母樣」が亡くなつたと聞いたのに、弔書《てうしよ》を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、壽阿彌が物事に拘《かゝは》らなかつた證に充《み》つべきであらう。
 大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出來た。駿河國志太郡《するがのくにしだごほり》島田驛で桑原氏の家は驛の西端、置鹽氏の家は驛の東方にあつた。土地の人は彼を大上《おほかみ》と云ひ、此を大下《おほしも》と云つた。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は大上の檀那《だんな》と呼ばれてゐた。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の妻ためは大下の置鹽氏から來り嫁した。ための父|即《すなは》ち※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の岳父は置鹽|蘆庵《ろあん》で、母即ち※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の岳母は蘆庵の妻すなである。
 さて大下の岳母すなは文政十年九月十二日に沒した。壽阿彌は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで不音《ぶいん》に打ち過ぎた。其《その》詫言《わびこと》を言つたのである。
 次に「清右衞門樣|先《まづ》はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ被成間敷候《なさるまじくそろ》」云々《しか/″\》と云ふ一節がある。此清右衞門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶《なほ》不明の廉《かど》があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の同家に桑原清右衞門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衞門は名を公綽《こうしやく》と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は但馬國出石郡《たじまのくにいづしごほり》出石の城主仙石道之助|久利《ひさとし》の世である。清右衞門は仙石家に仕へて、氏名を原|逸《はや》一と更《あらた》めた。頗《すこぶ》る氣節のある人で、和歌を善くし、又畫を作つた。畫の號は南田である。晩年には故郷に歸つて、明治の初年に七十餘歳で歿したさうである。文政十一年の二月は此清右衞門が奉公口に有り附いた當座であつたのではあるまいか。氣節のある人が志を得ないでゐたのに、昨今どうやらかうやら辛抱してゐると云ふやうに、壽阿彌の文は讀まれるのである。
 次の一節は頗る長く、大窪天民と喜多可庵との直話《ぢきわ》を骨子として、逐年物價が騰貴し、儒者畫家などの金を獲《う》ることも容易ならず、束脩《そくしう》謝金の高くなることを言つたものである。
 大窪天民は、「客歳《かくさい》」と云つてあるから文政十年に、加賀から大阪へ旅稼《たびかせぎ》に出たと見える。天民の收入は、江戸に居つても「一日に一分や一分二朱」は取れるのである。それが加賀へ往つたが、所得は「中位」であつた。それから「どつと當るつもり」で大阪へ乘り込んだ。大阪では佐竹家|藏屋敷《くらやしき》の役人等が周旋して大賈《たいこ》の書を請ふものが多かつた。然るに天民は出羽國秋田郡久保田の城主佐竹右京大夫|義厚《よしひろ》の抱への身分で、佐竹家藏屋敷の役人が「世話を燒いてゐる」ので、町人共が「金子の謝禮はなるまいとの間《かん》ちがひ」をしたので、ここも所得は少かつた。此旅行は「都合日數二百日にて、百兩ばかり」にはなつた。「一日が二分ならし」である。これでは江戸にゐると大差はなく、「出かけただけが損」だと云つてある。

     五

 天民が加賀から歸る途中の事に就て、壽阿彌はかう云つてゐる。「加賀の歸り高堂の前をば通らねばならぬ處ながら、直通《すぐどほ》りにて、其夜は雲嶺へ投宿のやうに申候、是は一杯飮む故なるべし。」天民の上戸《じやうご》は世の知る所である。此文を見れば、雲嶺も亦酒を嗜《たし》んだことがわかり、又※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が下戸であつたことがわかる。雲嶺は石野氏、名は世彜《せいい》、一に世夷《せいい》に作る、字《あざな》は希之《きし》、別に天均又|皆梅《かいばい》と號した。亦《また》駿河の人で詩を善くした。皇朝分類名家絶句等に其作が載せてある。
 皇朝分類名家絶句の事は、わたくしは初め萩野由之《はぎのよしゆき》さんに質《たゞ》して知つた。これがわたくしの雲嶺の石野氏なることを知つた始である。後にわたくしは拙堂文集を讀んでふと「皆梅園記」を見出だした。齋藤拙堂はかう云つてゐる。「老人姓石氏《らうじんのせいはせきし》。本爲市井人《もとしせいじんたり》。住藤枝驛《ふぢえだえきにすむ》。風流温藉《ふうりうにしてをんせき》。以善詩聞於江湖上《しをよくするをもつてこうこのうえにきこゆ》。庚子歳余東征《かのえねのとしよとうせいす》。過憩驛亭相見《すぎてえきていにいこひあひまみゆ》。間晤半日《かんごはんじつ》。知其名不虚《そのなのきよならざるをしる》。爾來毎門下生往來過驛《じらいもんかせいのわうらいしてえきをすぐるごとに》。輙囑訪老人《すなはちしよくしてらうじんをとはしめ》。得其近作以覽觀焉《そのきんさくをえてもつてらんくわんす》。去年夏余復東征《きよねんなつよまたとうせいす》。宿驛亭《えきていにしゆくし》。首問老人近状《はじめにらうじんのきんじやうをとふ》。驛吏曰《えきりいはく》。數年前辭市務《すうねんぜんしむをじし》。老於孤山下村《ひとりやましたむらにおゆと》。余即往訪之《よすなはちゆきてこれをとふ》。從驛中左折數武《えきちゆうよりさせつしてすうぶ》。槐花滿地《くわいくわちにみつ》。既覺非尋常行蹊《すでにしてじんじやうのかうけいにあらざるをさとる》。竹籬茅屋間《ちくりばうをくのかん》。得門而入《もんをえている》。老人大喜《らうじんおほいによろこぶ》。迎飮於其舍《むかへられてそのしやにいんす》。園數畝《えんすうほ》。經營位置甚工《けいえいのゐちはなはだたくみなり》。皆出老人之意匠《みならうじんのいしやうにいづ》。有菅神廟林仙祠《くわんしんべうりんせんしあり》。各奉祀其主《おのおのそのしゆをほうしす》。有賜春館《ししゆんくわんあり》。傍植東叡王府所賜之梅《かたはらにとうえいわうふたまふところのうめをうう》。其他皆以梅爲名《そのほかみなうめをもつてなとなす》。有小香國鶴避茶寮鶯逕戞玉泉等勝《せうかうこくかくひされうあうけいかつぎよくせんとうのしようあり》。前對巖田洞雲二山《まへはがんでんどううんにざんにたいし》。風煙可愛《ふうえんあいすべく》。使人徘徊賞之《ひとをしてはいくわいしこれをしやうせしむ》。」庚子《かうし》は天保十一年で、拙堂は藤堂|高猷《たかゆき》に扈隨《こずゐ》して津から江戸に赴《おもむ》いたのであらう。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。
 天民の年齡は、市河三陽さんの言《こと》に從へば、明和四年生で天保八年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は四十四歳であつた。
 喜多可庵の直話を壽阿彌が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料《てんさくれう》の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「畫人武清上州|桐生《きりふ》に遊候時《あそびそろとき》、桐生の何某《なにがし》申候には、數年|玉池《ぎよくち》へ詩を直してもらひに遣《つかは》し候《さふら》へ共《ども》、兎角《とかく》斧正《ふせい》※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]漏《そろう》にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間《ねがひまうすべくそろあひだ》、先生御紹介|可被下《くださるべく》と頼候時、武清申候には、隨分承知致候、歸府の上なり共、當地より文通にてなり共、五山へ可申込候《まうしこむべくそろ》、しかしながら爰《こゝ》に一つの譯合あり、謝物が薄ければ、疎漏《そろう》は五山も同じ事なるべし、矢張|馴染《なじみ》の天民へ氣を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも號した。文晁《ぶんてう》門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人だから、此話を壽阿彌に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの稱である。菊池五山は壽阿彌と同じく明和六年生で、嘉永二年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、壽阿彌がこれを書いた時六十歳になつてゐた。
 壽阿彌は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩《そくしう》の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならず、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾《けいぎじゆく》に居候時分、百|疋《ひき》持た弟子入《でしいり》が參れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二|分《ぶ》の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」壽阿彌は天民と共に山本北山に從學した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は寛延三年生で文化九年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らく
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