必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》に與ふる書を作つた文政十一年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清譽凉風居士、文久元|酉年《とりのとし》七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳」と記してあるのが、即《すなはち》是《これ》であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡との實兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齡より推すに、壽阿彌の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。
清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公|齊昭《なりあき》の世となつた。
二十二
清常より後の眞志屋の歴史は愈《いよ/\》模糊《もこ》として來る。しかし大體を論ずれば眞志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出來る。眞志屋は自ら支《さゝ》ふること能《あた》はざるがために、人の廡下《ぶか》に倚《よ》つた。初は「麹町|二本《ふたもと》傳次|方江《かたへ》同居」と云ふことになり、後「傳次不勝手に付金澤丹後方江|又候《またぞろ》同居」と云ふことになつた。
眞志屋文書に文化以後の書留と覺しき一册子があるが、惜むらくはその載する所の沙汰書《さたしよ》、伺書《うかがひしよ》、願書《ねがひしよ》等には多く年月日が闕《か》けてゐる。
此等の文に據るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類燒後御菓子製所大破に相成」云々と云つてある。此火災は壽阿彌の手紙にある「類燒」と同一で、文政十年の出來事であつたのだらう。
さて二本傳次の同居人であつた當時の眞志屋五郎兵衞は、病に依つて二本氏の族人をして家を嗣《つ》がしめたらしい。年月日を闕《か》いた願書に、「願之上親類麹町二本傳次方江同居仕御用向|無滯《とゞこほりなく》相勤候處、當夏中より中風相煩歩行相成兼其上|甥《をひ》鎌作《かまさく》儀病身に付(中略)右傳次方私從弟定五郎と申者江跡式相續|爲仕度《つかまつらせたく》(中略)奉願候、尤《もつとも》從弟儀|未《いまだ》若年に御座候に付右傳次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は眞志屋五郎兵衞、二本傳次の二人である。此願は定て聞き屆けられたであらう。
しかし十二代清常と此定五郎との接續が不明である。中風になつた五郎兵衞が二十歳で歿した清常でないことは疑を容《い》れない。已《や》むことなくば一説がある。同じ册子の定五郎相續願の直前に、同じく年月日を闕《か》いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衞の病氣のために、伯父久衞門が相續することを聽許《ていきよ》する文である。此五郎兵衞を清常とするときは、十三代久衞門、十四代定五郎となるであらう。
次に同じ册子に嘉永七|寅霜月《とらのしもつき》とした願書があつて、これは眞志屋が既に二本氏から金澤氏に轉寓した後の文である。眞志屋五郎作が金澤方にゐながら、五郎兵衞と改稱したいと云ふので、五郎作の叔父永井榮伯が連署してゐる。此願書が定五郎相續願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相續後に一旦五郎作と稱し、次で金澤氏に寓して、五郎兵衞と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井榮伯の兄の子の五郎作ではなからうか。因《ちなみ》に云ふ。壽阿彌を請じて源氏物語を講ぜしめた永井榮伯は、眞志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の言《こと》に據れば、わたくしが前《さき》に諸侯の抱醫か町醫かと云つた榮伯は、町醫であつたのである。
わたくしの眞志屋文書より獲《え》た所の繼承順序は、概《おほむ》ね此《かく》の如きに過ぎない。今にして壽阿彌の手紙を顧《かへりみ》ればその所謂《いはゆる》「愚姪《ぐてつ》」は壽阿彌に家人株《けにんかぶ》を買つて貰つた鈴木、師岡、乃至《ないし》山崎ではなくて、眞志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊澤の刀自や師岡未亡人の言《こと》の如く、壽阿彌の妹の子であらう。山崎は稍《やゝ》疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同稱であつた山崎は、某代五郎作の實兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては壽阿彌がこれを謂つて姪《てつ》となす所以《ゆゑん》を審《つまびらか》にすることが出來ない。
二十三
わたくしは師岡未亡人に、壽阿彌の妹の子が二人共|蒔繪《まきゑ》をしたことを聞いた。しかし先づ蒔繪を學んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の傍《かたはら》にあつてその爲《な》す所に傚《なら》つたのださうである。
わたくしは又伊澤の刀自に、其父|榛軒《しんけん》が壽阿彌の姪《をひ》をして櫛《くし》に蒔繪せしめたことを聞いた。此蒔繪師の號はすゐさいであつたさうである。
師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此號を用ゐたなら、識らぬ筈が無い。そこでわたくしは蒔繪師すゐさいは鈴木であらうと推測した。
此推測は當つたらしい。淺井平八郎さんは眞志屋の遺物の中から、寫本二種を選《え》り出して持つて來た。其一は蒔繪の圖案を集めたもので、西郭、溪雲、北可、玉燕女《ぎよくえんぢよ》等と署した畫が貼《は》り込んである。表紙の表には「畫本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹《とまつ》し、「壽哉《じゆさい》所藏」と書してある。其二は浮世繪師の名を年代順に列記し、これに略傳を附したもので、末に狩野家《かのけ》數世の印譜を寫して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四|辛亥《しんがい》春」と書し、其下に「鈴木壽哉」の印がある。伊澤榛軒のために櫛に蒔繪したのが、此鈴木壽哉であつたことは、殆ど疑を容れない。壽哉は或はしうさいなどと訓《よ》ませてゐたので、すゐさいと聞き錯《あやま》られたかも知れない。
初めわたくしは壽阿彌の墓を討《もと》めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて眞志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾《かつ》て昌林院に至りし日雨に阻《さまた》げられて墓に詣《まう》でなかつた。わたくしは平八郎さんが來た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである。近頃昌林院は墓地を整理するに當つて、墓石の一部を傳通院内に移し、爾餘のものは別に處分した。そして壽阿彌の墓は傳通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に參詣して、壽阿彌の墓の失踪《しつそう》を悲み、寺僧に其所在を問うて已《や》まなかつた。寺僧は資を捐《す》てて新に壽阿彌の石を立てた。今傳通院にあるものが即是である。未亡人石は毎《つね》に云つてゐる。「原《もと》の壽阿彌のお墓は硯《すゞり》のやうな、綺麗な石であつたのに、今のお墓はなんと云ふ見苦しい石だらう。」
わたくしは曩《さき》に寺僧の言《こと》を聞いた時、壽阿彌が幸にして盛世|碑碣《ひけつ》の厄《やく》を免れたことを喜んだ。然るに當時寺僧は實を以てわたくしに告げなかつたのである。壽阿彌の墓は香華《かうげ》未だ絶えざるに厄に罹《かゝ》つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。
大凡《おほよそ》改葬の名の下《もと》に墓石を處分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措《お》いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を經て、踪迹《そうせき》の尋ぬべからざるに至つた墓碣《ぼけつ》は、その幾何《いくばく》なるを知らない。此厄は世々の貴人大官|碩學《せきがく》鴻儒《こうじゆ》及至諸藝術の聞人と雖《いへども》免れぬのである。
此間寺僧にして能く過《あやまち》を悔いて、一旦處分した墓を再建したものは、恐らくは唯《たゞ》昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯《あへ》て財を投じて此|稀有《けう》の功徳《くどく》を成さしめたのは、實に師岡氏未亡人石が悃誠《こんせい》の致す所である。
二十四
眞志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の兩家は淺草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。
わたくしは眞志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。餘り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作《な》した手入である。姑《しばら》く前者を原本と名づけ、後者を別本と名づけることにする。
原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一鐵まで皆然りである。そして此本には十代を淨本としてゐる。
別本は淨本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐる。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十一代壽阿彌曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]で、此人が始て江間氏から出て遺骸を昌林院に埋めた。
長島氏の事蹟は頗る明《あきらか》でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密なる關係を有するものと推測する。過去帳別本に「貞譽誠範居士、葬于光照院《くわうせうゐんにはうむる》、長島五郎兵衞、□代五郎兵衞實父、□□□月」として「二十日」の下に記してある。四字は紙質が濕氣のために變じて讀むべからざるに至つてゐる。然るにこれに參照すべき戒名が今一つある。それは「覺譽|泰了《たいれう》居士、明和六年|己丑《きちう》七月、遠州舞坂人、江間小兵衞三男、俗名利右衞門、九代目五郎作實祖父、葬于淺草光照院《あさくさくわうせうゐんにはうむる》」と、「四日」の下に記してある泰了である。
試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衞の三男が利右衞門泰了、泰了の子が長島五郎兵衞誠範、誠範の子が眞志屋九代の五郎作、後《のち》五郎兵衞一鐵と云ふことになる。別本一鐵の下には五郎兵衞としてあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初《はじめ》五郎作、後五郎兵衞となつたものと見るのである。
更に推測の歩を進めて、江間氏は世《よゝ》利右衞門と稱してゐて、明和六年に歿した利右衞門泰了の嫡子が寛政四年に歿した利右衞門淨岸で、淨岸の弟が長島五郎兵衞誠範であつたとする。さうすると淨岸の子壽阿彌と誠範の子一鐵とは從兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だしく想像を肆《ほしいまゝ》にしたものだとは信ぜない。
わたくしはこれだけの事を考へて、二種の過去帳を、他の眞志屋文書に併せて平八郎さんに還した。
わたくしは昌林院の壽阿彌の墓が新に建てられたものだと聞いたので、これを訪《と》ふ念が稍《やゝ》薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島兩家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので、わたくしは大いにこれに屬望《ぞくばう》した。わたくしは山谷の光照院に往つた。
淺草|聖天町《しやうでんちやう》の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、右側に石柱|鐵扉《てつぴ》の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓地は門を入つて右手、本堂の南にある。
二十五
光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石《ひらいし》の墓があつて、それに十四人の戒名が一列に彫《ゑ》り付けてある。其中三人だけは後に追加したものである。追加三人の最も右に居るのが眞志屋十一代の壽阿彌、次が十二代の「戒譽西村清常居士、文政十三年|庚寅《かういん》十二月十二日」、次が「證譽西村清郷居士、天保九年|戊戌《ぼじゆつ》七月五日」である。壽阿彌は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間氏の菩提所に留《とゞ》めむがために、此墓に彫《ゑ》り添へさせたものであらう。清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、獨《ひとり》別本にのみ見えてゐる。殘餘十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人たるかは考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。
古い戒名の江間氏親戚十一人の關係は、過去帳別本に徴するに頗る複雜で、容易には明《あきら》め難い。唯《たゞ》二三の注意に値する件々を左に記して遺忘に備へて置く。
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