の寺院に避難し、七は寺院に於て一少年と相識になり、新築の家に歸つた後、彼《かの》少年に再會したさに我家に放火し、其《その》科《とが》に因《よ》つて天和三年三月二十八日に十六歳で刑せられた。島は七の死を悼《いた》んで、七が遺物の袱紗に祐天上人《いうてんしやうにん》筆の名號《みやうがう》を包んで、大切にして持つてゐた。
後に壽阿彌は此袱紗の一邊に、白羽二重の切《きれ》を縫ひ附けて、それに縁起を自書した。そしてそれを持つて山崎美成に見せに往つた。
此袱紗は今淺井氏の所藏になつてゐるのを、わたくしは見ることを得た。袱紗は燧袋形《ひうちぶくろなり》に縫つた更紗縮緬《さらさちりめん》の上被《うはおほひ》の中《うち》に入れてある。上被には蓮華《れんげ》と佛像とを畫《ゑが》き、裏面中央に「倣尊澄法親王筆《そんちようはふしんのうひつにならふ》」、右邊に「保午浴佛日呈壽阿上人蓮座《はうごよくぶつじつじゆあしやうにんれんざにていす》」と題し、背面に心經《しんぎやう》の全文を寫し、其右に「天保五年|甲午《かふご》二月廿五日佛弟子竹谷依田|瑾薫沐書《きんくんもくしてしよす》」と記してある。依田竹谷《よだちくこく》、名は瑾《きん》、字《あざな》は子長、盈科齋《えいくわさい》、三|谷庵《こくあん》、又|凌寒齋《りようかんさい》と號した。文晁《ぶんてう》の門人である。此|上被《うはおほひ》に畫いた天保五年は竹谷が四十五歳の時で、後九年にして此人は壽阿彌に先《さきだ》つて歿した。山崎美成が見た時には、上被はまだ作られてゐなかつたのである。
上被から引き出して見れば、袱紗は緋縮緬の表も、紅絹《もみ》の裏も、皆淡い黄色に褪《さ》めて、後に壽阿彌が縫ひ附けた白羽二重の古びたのと、殆ど同色になつてゐる。壽阿彌の假名文は海録に讓つて此《こゝ》に寫さない。末に「文政六年|癸未《きび》四月眞志屋五郎作|新發意《しんぼつち》壽阿彌陀佛」と署して、邦字の華押《くわあふ》がしてある。
わたくしは更に此袱紗に包んであつた六字の名號を披《ひら》いて見た。中央に「南無阿彌陀佛」、其兩邊に「天下和順、日月清明」と四字づゝに分けて書き、下に祐天《いうてん》と署し、華押がしてある。裝※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]《さうくわう》には葵《あふひ》の紋のある錦《にしき》が用ゐてある。享保三年に八十三歳で、目黒村の草菴《さうあん》に於て祐天の寂《じやく》したのは、島の歿した享保十一年に先つこと僅に八年である。名號は島が親しく祐天に受けたものであらう。
島の年齡は今知ることが出來ない。遺物の中に縫薄《ぬひはく》の振袖《ふりそで》がある。袖の一邊に「三譽妙清樣小石川|御屋形江御上《おんやかたへおんあが》り之節|縫箔《ぬひはく》の振袖、其頃の小唄にたんだ振れ/\六尺袖をと唄ひし物|是也《これなり》、享保十一年|丙辰《へいしん》六月七日死、生年不詳、家説を以て考ふれば寛文年間なるべし、裔孫《えいそん》西村氏所藏」と記してある。
島が若し寛文元年に生れたとすると、天和元年が二十一歳で、歿年が六十六歳になり、寛文十二年に生れたとすると、天和元年が十歳で、歿年が五十五歳になる。わたくしは島が生れたのは寛文七年より前で、その水戸家に上つたのは、延寶の末か天和の初であつたとしたい。さうするとお七が十三四になつてゐて、袱紗を縫ふにふさはしいのである。いづれにしても當時の水戸家は義公時代である。
さていつの事であつたか、詳《つまびらか》でないが、義公の猶《なほ》位にある間に、即ち元祿三年以前に水戸家は義公の側女中になつてゐた島に暇《いとま》を遣《や》つた。そして清休の子廓清が妻にせいと内命した。島は清休の子婦《よめ》、廓清の妻になつて、一子東清を擧げた。若し島が下げられた時、義公の胤《たね》を舍《やど》してゐたとすると、東清は義公の庶子《しよし》であらう。
二十
既にして清休は未だ世を去らぬに、主家に於ては義公光圀が致仕し、肅公綱條が家を繼いだ。頃《しばら》くあつて藤井紋太夫の事があつた。隱居西山公が能の中入《なかいれ》に樂屋に於て紋太夫を斬つた時、清休は其場に居合せた。眞志屋の遺物寫本西山遺事の附録末二枚の欄外に、壽阿彌の手で書入がしてある。「家説云《かせつにいはく》、元祿七年十一月廿三日、御能有之《おんのうこれあり》、公羽衣のシテ被遊《あそばさる》、御中入之節御樂屋に而《て》、紋太夫を御手討に被遊候《あそばされそろ》、(中略)、御樂屋に有合《ありあふ》人々八方へ散亂せし内に、清休君一人公の御側《おんそば》をさらず、御刀の拭《ぬぐひ》、御手水《おんてうづ》一人にて相勤、扨《さて》申上けるは、私共|愚眛《ぐまい》に而《て》、かゝる奸惡之者共不存《かんあくのものともぞんぜず》、入魂《じゆつこん》に立入仕候段只今に相成重々|奉恐入候《おそれいりたてまつりそろ》、思召次第如何樣共御咎仰付可被下置段申上《おぼしめししだいいかやうともおんとがめおほせつけくだしおかるべきだんまうしあげ》ける時、公笑はせ玉ひ、余が眼目をさへ眩《くら》ませし程のやつ、汝等《なむぢら》が欺かれたるは尤《もつと》ものことなり、少《すこし》も咎申付《とがめまうしつく》る所存なし、しかし汝は格別世話にもなりたる者なれば、汝が菩提所《ぼだいしよ》へなりとも、死骸葬り得さすべしと仰有之候《おほせこれありそろ》に付、則《すなはち》菩提所傳通院寺中昌林院へ埋《うづ》め、今猶墳墓あれども、一華を手向《たむく》る者もなし、僅に番町邊の人一人正忌日にのみ參詣すと云ふ、法名光含院孤峰心了居士といへり。」
説いて此《こゝ》に至れば、獨《ひとり》所謂落胤問題と八百屋お七の事のみならず、彼《かの》藤井紋太夫の事も亦清休、廓清の父子と子婦《よめ》島との時代に當つてゐるのがわかる。
清休は元祿十二年|閏《うるふ》九月十日に歿した。次に其家を繼いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。「御西山君樣御代御側向御召抱お島之御方と被申候を妻に被下置、厚き奉蒙御重恩候而、年々御米百俵宛三季に」頂戴したのは此人である。此書上の文を翫味《ぐわんみ》すれば、落胤問題の生じたのは、決して偶然でない。次で「元文三年より御扶持方七人分被下置」と云ふことに改められた。廓清は享保四年三月二十九日に歿した。島は遲れて享保十一年六月七日に歿した。眞志屋文書の過去帳に「五代廓清君室、六代東清君母儀、三譽妙清信尼、俗名嶋」と記してある。當時水戸家は元祿十三年に西山公が去り、享保三年に肅公綱條が去つて、成公|宗堯《むねたか》の世になつてゐた。
六代西村東清信士は過去帳一本に「幼名五郎作|自義公《ぎこうより》拜領、十五歳|初御目見得《はつおんめみえ》、依願《ねがひによつて》西村家相續|被仰付《おほせつけらる》、眞志屋號拜領、高三百石被下置、俳名春局」と註してある。幼名拜領並に初御目見得から西村家相續に至るには、年月が立つてゐたであらう。此人が即ち所謂落胤である。若し落胤だとすると、水戸家は光圀の庶兄頼重の曾孫たる宗堯《むねたか》の世となつてゐたのに、光圀の庶子東清は用達商人をしてゐたわけである。
過去帳一本の註に據るに、五郎作の稱が此時より始まつてゐる。初代以來五郎兵衞と稱してゐたのに、東清に至つて始めて五郎作と稱し、後に壽阿彌もこれを襲《つ》いだのである。又「俳名春局」と註してあるのを見れば、東清が俳諧をしたことが知られる。
眞志屋の屋號は、右の過去帳一本の言ふ所に從へば、東清が始て水戸家から拜領したものである。眞志屋の紋は、金澤|蒼夫《さうふ》さんの言《こと》に從へば、マの字に象《かたど》つたもので、これも亦水戸家の賜ふ所であつたと云ふ。
東清は寶暦二年十二月五日に歿した。水戸家は成公宗堯が享保十五年に去つて、良公|宗翰《むねもと》の世になつてゐた。
二十一
眞志屋の七代は西譽淨賀信士である。過去帳一本に「實は東國屋伊兵衞弟、俳名|東之《とうし》」と註してある。東清の壻養子であらう。淨賀は安永十年三月二十七日に歿した。水戸家は良公|宗翰《むねもと》が明和二年に世を去つて、文公|治保《はるもり》の世になつてゐた。
八代は薫譽沖谷居士《くんよちゆうこくこじ》である。天明三年七月二十日に歿した。水戸家は舊に依つて治保《はるもり》の世であつた。
九代は心譽一鐵信士である。此人の代に、「寛政五|丑年《うしどし》より暫の間三人半扶持御減し當時三人半被下置」と云ふことになつた。一鐵の歿年は二種の過去帳が記載を殊《こと》にしてゐる。文化三年十一月六日とした本は手入の迹《あと》の少い本である。他の一本は此年月日を書してこれを抹殺《まつさつ》し、傍《かたはら》に寛政八年十一月六日と書してある。前者の歿年に先つこと一年、文化二年に水戸家では武公|治紀《はるとし》が家督相續をした。
十代は二種の過去帳に別人が載せてある。誓譽淨本居士としたのが其一で、他の一本には此《こゝ》に淨譽了蓮信士《じやうよれうれんしんし》が入れて、「十代五郎作、後《のち》平兵衞」と註してある。淨本は文化十三年六月二十九日に歿した人、了蓮は寛政八年七月六日に歿した人である。今|遽《にはか》に孰《いづ》れを是なりとも定め難いが、要するに九代十代の間に不明な處がある。淨本の歿した年に、水戸家では哀公|齊脩《なりのぶ》が家督相續をした。
これよりして後の事は、手入の少い過去帳には全く載せて無い。これに反して他の一本には、壽阿彌の五郎作が了蓮の後を襲《つ》いで眞志屋の十一代目となつたものとしてある。寛政八年には壽阿彌は二十八歳になつてゐた。
壽阿彌は本《もと》江間氏で、其家は遠江國《とほたふみのくに》濱名郡舞坂から出てゐる。父は利右衞門、法諡《ほふし》頓譽淨岸居士《とんよじやうがんこじ》である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑屬を載せてゐない。此人に妹があり、姪《をひ》があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして眞志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊屬|姻戚《いんせき》の上に存するのであらう。
壽阿彌の五郎作は文政五年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下《もと》に記した文とを以つて證することが出來る。前者には、「延譽壽阿彌、俗名五郎作、文政五年壬午十月於淺草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光譽壽阿彌陀佛、十一代目五郎作、實《じつは》江間利右衞門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の條に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。
わたくしは壽阿彌の手紙を讀んで、壽阿彌は姪《をひ》に菓子店を讓つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言《こと》に據つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に眞志屋文書を見るに及んで、新に壽阿彌の姪一人の名を發見した。此姪は分明に五郎兵衞と稱して眞志屋を繼承し、尋《つい》で壽阿彌に先だつて歿したのである。
壽阿彌が自筆の西山遺事の書後に、「姪眞志屋五郎兵衞清常、藏西山遺事一部、其書誤脱|不爲不多《おほからずとなさず》、今謹考數本、校訂|以貽後生《もつてこうせいにのこす》」と云ひ、「文政五年秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は壽阿彌が剃髮する二月前である。これに由《よ》つて觀れば、壽阿彌が將《まさ》に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち壽阿彌が十二代の五郎兵衞清常のために書いたものと見たい。
此清常は過去帳の一本に載せてあり、又壽阿彌の位牌の左邊に「戒譽西村清常居士、文政十三年|庚寅《かういん》十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は壽阿彌が出家した文政五年の後八年、眞志屋の火災に遇《あ》つた文政十年の後三年、壽阿彌が※[#「くさかんむり/
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