、弟|敦恒《とんこう》が其|燼餘《じんよ》を拾つて二卷を爲した。載せて甘雨亭叢書《かんうていそうしよ》の中にある。東里の集は偶《たま/\》これと名を同じうしてゐたのであつた。
わたくしの言はむと欲した所は是だけである。只最後に附記して置きたいのは、師岡未亡人石と東條琴臺の家との關係である。
初め高野氏石に一人の姉があつて、名をさくと云つた。さくは東條琴臺の子|信升《しんしよう》に嫁して、名をふぢと改めた。ふぢの生んだ信升の子は夭《えう》し、其|女《むすめ》が現存してゐるさうである。
淺井平八郎さんの話に據るに、石は嘗《かつ》て此縁故あるがために、東條氏の文書を託せられてゐた。文書は石が東條氏の親戚たる下田歌子さんに交付したさうである。
わたくしは琴臺の事蹟を詳《つまびらか》にしない。聞く所に據れば、琴臺は信濃《しなの》の人で、名は耕、字《あざな》は子臧《しざう》、小字《をさなな》は義藏である。寛政七年六月七日芝宇田川町に生れ、明治十一年九月二十七日に八十四歳で歿した。文政七年林氏の門人籍に列し、昌平黌《しやうへいくわう》に講説し、十年|榊原遠江守政令《さかきばらとほたふみのかみまさなり》に聘せられ、天保三年故あつて林氏の籍を除かれ、弘化四年榊原氏の臣となり、嘉永三年伊豆七島全圖を著《あらは》して幕府の譴責《けんせき》を受け、榊原氏の藩邸に幽せられ、四年|謫《たく》せられて越後國高田に往き、戊辰《ぼしん》の年には尚《なほ》高田|幸橋町《みゆきばしちやう》に居つた。明治五年八月に七十八歳で向島|龜戸《かめゐど》神社の祠官《しくわん》となり、眼疾のために殆ど失明して終つたと云ふことである。先哲叢談續編に「先生後獲罪《せんせいはのちにつみをえて》、謫在越之高田《ながされてえつのたかだにあり》、(中略)無幾王室中興《いくばくもなくわうしつちゆうこうす》、先生嘗得列官于朝《せんせいはかつてくわんをてうにれつすることをう》」と書してある。琴臺の子信升の名は、平八郎さんに由つて始て聞いたのである。
[#地から1字上げ](大正五年五・六月)
底本:「筑摩全集類聚森鴎外全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年11月5日初版第1刷発行
1972(昭和47)年6月20日初版第2刷発行
※「道聽途説」と「道聽塗説」の混在は底本通りにしました。またルビの混在(p203−下−11では「だうていとせつ」、p226−上−23では「どうていとせつ」)も底本通りにしました。
入力:篠森
校正:小林繁雄
2005年1月26日作成
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