大凡《おほよそ》改葬の名の下《もと》に墓石を處分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措《お》いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を經て、踪迹《そうせき》の尋ぬべからざるに至つた墓碣《ぼけつ》は、その幾何《いくばく》なるを知らない。此厄は世々の貴人大官|碩學《せきがく》鴻儒《こうじゆ》及至諸藝術の聞人と雖《いへども》免れぬのである。
 此間寺僧にして能く過《あやまち》を悔いて、一旦處分した墓を再建したものは、恐らくは唯《たゞ》昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯《あへ》て財を投じて此|稀有《けう》の功徳《くどく》を成さしめたのは、實に師岡氏未亡人石が悃誠《こんせい》の致す所である。

     二十四

 眞志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の兩家は淺草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。
 わたくしは眞志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。餘り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作《な》した手入である。姑《しばら》く前者を原本と名づけ、
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