ふ所に從へば、神惟徳《しんゐとく》の米庵略傳に下《しも》の如く云つてあるさうである。「震災後二年を隔てゝ夏秋の交に及び、先生時邪に犯され、發熱|劇甚《げきじん》にして、良醫|交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》來《きた》り診《しん》し苦心治療を加ふれど効驗なく、年八十にして七月十八日|溘然《かふぜん》屬※[#「糸+廣」、第3水準1−90−23]《ぞくくわう》の哀悼《あいたう》を至す」と云ふのである。又當時虎列拉に死した人々の番附が發刊せられた。三陽さんは其二種を藏してゐるが、並《ならび》に皆米庵を載せてゐるさうである。
 壽阿彌の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂に遣《や》つた手紙は、二三の友人がこれを公にせむことを勸めた。わたくしも此手紙の印刷に附する價値あるものたるを信ずる。なぜと云ふに、その記する所は開明史上にも文藝史上にも尊重すべき資料であつて、且讀んで興味あるべきものだからである。
 手紙には考ふべき人物九人と※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の親戚《しんせき》知人四五人との名が出てゐる。前者中儒者には山本北山がある。詩人には
前へ 次へ
全103ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング