記してある。癸亥は享和三年で、安永八年生れの米庵が二十五歳、天明四年生の※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂が二十歳の時である。客も主人も壯年であつた。わたくしは主客の關係を詳《つまびらか》にせぬが、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の詩を詩話中に收めた菊池五山が米庵の父寛齋の門人であつたことを思へば、米庵は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂がためには、啻《たゞ》に己《おのれ》より長ずること五歳なる友であつたのみではなく、頗《すこぶ》る貴《たふと》い賓客であつただらう。
三陽さんは別に其祖父米庵に就いてわたくしに教ふる所があつた。これはわたくしが澀江抽齋の死を記するに當つて、米庵に言ひ及ぼしたからである。抽齋と米庵とは共に安政五年の虎列拉《コレラ》に侵された。抽齋は文化二年生の五十四歳、米庵は八十歳であつたのである。しかしわたくしは略《ほゞ》抽齋の病状を悉《つく》してゐて、その虎列拉《コレラ》たることを斷じたが、米庵を同病だらうと云つたのは、推測に過ぎなかつた。
わたくしの推測は幸《さいはひ》にして誤でなかつた。三陽さんの言
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