名倉にて邂逅《かいこう》、其節|御噂《おんうはさ》も申出候。」やまぶきぞのの岸本|由豆流《ゆづる》は寛政元年に生れ、弘化三年に五十八歳で歿したから、壽阿彌に名倉で逢つた文政十年には三十九歳である。通稱は佐々木信綱さんに問ふに、大隅《おほすみ》であつたさうであるが、此年の武鑑|御弦師《おんつるし》の下《もと》には、五十俵|白銀《しろかね》一丁目岸本能聲と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能聲と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸體《さうたい》の文字が不明であるから、讀み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳《つまびらか》にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。
七
壽阿彌は怪我の話をして、其末には不沙汰《ぶさた》の詫言《わびこと》を繰り返してゐる。「怪我|旁《かた/″\》」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸燒後萬事不調」だと云ふことが言つてある。
壽阿彌の家の燒けたのは、いつの事か明かでない。又その燒けた家もどこの家だか明
前へ
次へ
全103ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング