の日數を經ねば治しがたしと申候。」流行醫の口吻《こうふん》、昔も今も殊《こと》なることなく、實に其聲を聞くが如くである。
壽阿彌は文政十年七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月《ごくげつ》末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而《いまもつて》全快と申には無御座候而《ござなくさふらうて》、少々|麻痺《まひ》仕候氣味に御座候へ共、老體のこと故、元の通りには所詮《しよせん》なるまいと、其《その》儘《まゝ》に而《て》此節は療治もやめ申候」と云ふ轉歸である。
手紙には當時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉|彌次兵衞《やじべゑ》と申候而、此節高名の骨接《ほねつぎ》醫師、大《おほい》に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人參候故、早朝參候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行醫の待合の光景も亦古今同趣である。次《つい》で壽阿彌が名倉の家に於て邂逅《かいこう》した人々の名が擧げてある。「岸本|※[#「木+在」、第4水準2−14−53]園《ざいゑん》、牛込の東更《とうかう》なども怪我にて參候、大塚三太夫息八郎と申人も
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