ば、疎漏《そろう》は五山も同じ事なるべし、矢張|馴染《なじみ》の天民へ氣を附て謝物をするがよささうな物と申てわらひ候由、武清はなしに御座候。」武清は可庵の名である。又笑翁とも號した。文晁《ぶんてう》門で八丁堀に住んでゐた。安永五年生で安政三年に八十一歳で歿した人だから、此話を壽阿彌に書かれた時が五十三歳であつた。玉池は天民がお玉が池に住したからの稱である。菊池五山は壽阿彌と同じく明和六年生で、嘉永二年に八十一歳で歿したから、天民よりは二つの年下で、壽阿彌がこれを書いた時六十歳になつてゐた。
 壽阿彌は天民の話と可庵の話とを書いて、さて束脩《そくしう》の高くなつたことを言つてゐる。其文はかうである。「近年役者の給金のみならず、儒者の束脩までが高くなり、天民貧道など奚疑塾《けいぎじゆく》に居候時分、百|疋《ひき》持た弟子入《でしいり》が參れば、よい入門と申候物が、此頃は天でも五山でも、二|分《ぶ》の弟子入はそれ程好いとは思はず、流行はあぢな物に御座候。」壽阿彌は天民と共に山本北山に從學した。奚疑塾は北山の家塾である。北山は寛延三年生で文化九年に六十一歳で歿したから、束脩百疋の時代は、恐らく
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