。記を作つたのは安政中の事かとおもはれる。
 天民の年齡は、市河三陽さんの言《こと》に從へば、明和四年生で天保八年に七十一歳を以て終つたことになるから、加賀大阪の旅は六十一歳の時であつた。素通りをせられた※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は四十四歳であつた。
 喜多可庵の直話を壽阿彌が聞いて書いたのも、天民と五山との詩の添削料《てんさくれう》の事である。これは首尾の整つた小品をなしてゐるから、全文を載せる。「畫人武清上州|桐生《きりふ》に遊候時《あそびそろとき》、桐生の何某《なにがし》申候には、數年|玉池《ぎよくち》へ詩を直してもらひに遣《つかは》し候《さふら》へ共《ども》、兎角《とかく》斧正《ふせい》※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]漏《そろう》にて、時として同字などある時もありてこまり申候、これよりは五山へ願可申候間《ねがひまうすべくそろあひだ》、先生御紹介|可被下《くださるべく》と頼候時、武清申候には、隨分承知致候、歸府の上なり共、當地より文通にてなり共、五山へ可申込候《まうしこむべくそろ》、しかしながら爰《こゝ》に一つの譯合あり、謝物が薄けれ
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