は大下の置鹽氏から來り嫁した。ための父|即《すなは》ち※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の岳父は置鹽|蘆庵《ろあん》で、母即ち※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の岳母は蘆庵の妻すなである。
さて大下の岳母すなは文政十年九月十二日に沒した。壽阿彌は其年の冬のうちに弔書を寄すべきであるのに、翌文政十一年の春まで不音《ぶいん》に打ち過ぎた。其《その》詫言《わびこと》を言つたのである。
次に「清右衞門樣|先《まづ》はどうやらかうやら江戸に御辛抱の御樣子故御案じ被成間敷候《なさるまじくそろ》」云々《しか/″\》と云ふ一節がある。此清右衞門と云ふ人の事蹟は、棠園さんの手許でも猶《なほ》不明の廉《かど》があるさうである。しかし大概はわかつてゐる。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の同家に桑原清右衞門と云ふ人があつた。同家とのみで本末は明白でない。清右衞門は名を公綽《こうしやく》と云つた。江戸に往つて、仙石家に仕へ、用人になつた。當時の仙石家は但馬國出石郡《たじまのくにいづしごほり》出石の城主仙石道之助|久利《ひさとし》の世である。清右衞
前へ
次へ
全103ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング