畢《をは》つて壽阿彌は、岡崎町の地藏橋の方へ、錫杖《しやくぢやう》を衝《つ》き鳴らして去つたと云ふのである。
魯文の記事には多少の文飾もあらうが、壽阿彌の剃髮、壽阿彌の勤行がどんなものであつたかは、大概此出來事によつて想見することが出來よう。寛政三年生で當時三十八歳の戲作者《げさくしや》焉馬が、壽阿彌のためには自分の贔屓《ひいき》にして遣《や》る末輩であつたことは論を須《ま》たない。
四
次に「大下の岳母樣」が亡くなつたと聞いたのに、弔書《てうしよ》を遣らなかつたわびが言つてある。改年後始めて遣る手紙にくやみを書いたのは、壽阿彌が物事に拘《かゝは》らなかつた證に充《み》つべきであらう。
大下の岳母が何人かと云ふことは、棠園さんに問うて知ることが出來た。駿河國志太郡《するがのくにしだごほり》島田驛で桑原氏の家は驛の西端、置鹽氏の家は驛の東方にあつた。土地の人は彼を大上《おほかみ》と云ひ、此を大下《おほしも》と云つた。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂は大上の檀那《だんな》と呼ばれてゐた。※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の妻ため
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