大凡《おほよそ》改葬の名の下《もと》に墓石を處分するは、今の寺院の常習である。そして警察は措《お》いてこれを問はない。明治以降所謂改葬を經て、踪迹《そうせき》の尋ぬべからざるに至つた墓碣《ぼけつ》は、その幾何《いくばく》なるを知らない。此厄は世々の貴人大官|碩學《せきがく》鴻儒《こうじゆ》及至諸藝術の聞人と雖《いへども》免れぬのである。
此間寺僧にして能く過《あやまち》を悔いて、一旦處分した墓を再建したものは、恐らくは唯《たゞ》昌林院主一人あるのみであらう。そして院主をして肯《あへ》て財を投じて此|稀有《けう》の功徳《くどく》を成さしめたのは、實に師岡氏未亡人石が悃誠《こんせい》の致す所である。
二十四
眞志屋の西村氏は古くから昌林院を菩提所にしてゐた。然るに中ごろ婚嫁のために江間氏と長島氏との血が交つたらしい。江間、長島の兩家は淺草山谷の光照院を菩提所にしてゐたのである。
わたくしは眞志屋文書に二種の過去帳のあることを言つた。餘り手入のしてない原本と、手入のしてある他の一本とである。其手入は江間氏の人々の作《な》した手入である。姑《しばら》く前者を原本と名づけ、後者を別本と名づけることにする。
原本は昌林院に葬つた人々のみを載せてゐる。初代日水から九代一鐵まで皆然りである。そして此本には十代を淨本としてゐる。
別本は淨本を歴代の中から除き去つて、代ふるに了蓮を以てしてゐる。これは光照院に葬られた人で、恐らくは江間氏であらう。次が十一代壽阿彌曇※[#「大/周」、第3水準1−15−73]で、此人が始て江間氏から出て遺骸を昌林院に埋めた。
長島氏の事蹟は頗る明《あきらか》でないが、わたくしは長島氏が江間氏と近密なる關係を有するものと推測する。過去帳別本に「貞譽誠範居士、葬于光照院《くわうせうゐんにはうむる》、長島五郎兵衞、□代五郎兵衞實父、□□□月」として「二十日」の下に記してある。四字は紙質が濕氣のために變じて讀むべからざるに至つてゐる。然るにこれに參照すべき戒名が今一つある。それは「覺譽|泰了《たいれう》居士、明和六年|己丑《きちう》七月、遠州舞坂人、江間小兵衞三男、俗名利右衞門、九代目五郎作實祖父、葬于淺草光照院《あさくさくわうせうゐんにはうむる》」と、「四日」の下に記してある泰了である。
試みに誠範の所の何代を九代とすると、江間小兵衞の三男が利右衞門泰了、泰了の子が長島五郎兵衞誠範、誠範の子が眞志屋九代の五郎作、後《のち》五郎兵衞一鐵と云ふことになる。別本一鐵の下には五郎兵衞としてあつて、泰了の下に九代目五郎作としてあるから、初《はじめ》五郎作、後五郎兵衞となつたものと見るのである。
更に推測の歩を進めて、江間氏は世《よゝ》利右衞門と稱してゐて、明和六年に歿した利右衞門泰了の嫡子が寛政四年に歿した利右衞門淨岸で、淨岸の弟が長島五郎兵衞誠範であつたとする。さうすると淨岸の子壽阿彌と誠範の子一鐵とは從兄弟になる。わたくしは此推測を以て甚だしく想像を肆《ほしいまゝ》にしたものだとは信ぜない。
わたくしはこれだけの事を考へて、二種の過去帳を、他の眞志屋文書に併せて平八郎さんに還した。
わたくしは昌林院の壽阿彌の墓が新に建てられたものだと聞いたので、これを訪《と》ふ念が稍《やゝ》薄らいだ。これに反して光照院の江間、長島兩家の墓所は、わたくしに新に何物をか教へてくれさうに思はれたので、わたくしは大いにこれに屬望《ぞくばう》した。わたくしは山谷の光照院に往つた。
淺草|聖天町《しやうでんちやう》の停留場で電車を下りて吉野町を北へ行くと、右側に石柱|鐵扉《てつぴ》の門があつて、光照院と書いた陶製の標札が懸けてある。墓地は門を入つて右手、本堂の南にある。
二十五
光照院の墓地の東南隅に、殆ど正方形を成した扁石《ひらいし》の墓があつて、それに十四人の戒名が一列に彫《ゑ》り付けてある。其中三人だけは後に追加したものである。追加三人の最も右に居るのが眞志屋十一代の壽阿彌、次が十二代の「戒譽西村清常居士、文政十三年|庚寅《かういん》十二月十二日」、次が「證譽西村清郷居士、天保九年|戊戌《ぼじゆつ》七月五日」である。壽阿彌は西村氏の菩提所昌林院に葬られたが、親戚が其名を生家の江間氏の菩提所に留《とゞ》めむがために、此墓に彫《ゑ》り添へさせたものであらう。清常、清郷は過去帳原本の載せざる所で、獨《ひとり》別本にのみ見えてゐる。殘餘十一人の古い戒名は皆別本にのみ出てゐる名である。清郷の何人たるかは考へられぬが、清常の近親らしく推せられる。
古い戒名の江間氏親戚十一人の關係は、過去帳別本に徴するに頗る複雜で、容易には明《あきら》め難い。唯《たゞ》二三の注意に値する件々を左に記して遺忘に備へて置く。
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