した清常でないことは疑を容《い》れない。已《や》むことなくば一説がある。同じ册子の定五郎相續願の直前に、同じく年月日を闕《か》いた沙汰書が載せてある。これは五郎兵衞の病氣のために、伯父久衞門が相續することを聽許《ていきよ》する文である。此五郎兵衞を清常とするときは、十三代久衞門、十四代定五郎となるであらう。
 次に同じ册子に嘉永七|寅霜月《とらのしもつき》とした願書があつて、これは眞志屋が既に二本氏から金澤氏に轉寓した後の文である。眞志屋五郎作が金澤方にゐながら、五郎兵衞と改稱したいと云ふので、五郎作の叔父永井榮伯が連署してゐる。此願書が定五郎相續願の直後に載せてあるのを見れば、或は定五郎は相續後に一旦五郎作と稱し、次で金澤氏に寓して、五郎兵衞と改めたのではなからうか。それは兎も角も、山崎久次郎を以て兄とする五郎作は、此文に見えてゐる五郎作即ち永井榮伯の兄の子の五郎作ではなからうか。因《ちなみ》に云ふ。壽阿彌を請じて源氏物語を講ぜしめた永井榮伯は、眞志屋の親戚であつたことが、此文に徴して知られる。師岡氏未亡人の言《こと》に據れば、わたくしが前《さき》に諸侯の抱醫か町醫かと云つた榮伯は、町醫であつたのである。
 わたくしの眞志屋文書より獲《え》た所の繼承順序は、概《おほむ》ね此《かく》の如きに過ぎない。今にして壽阿彌の手紙を顧《かへりみ》ればその所謂《いはゆる》「愚姪《ぐてつ》」は壽阿彌に家人株《けにんかぶ》を買つて貰つた鈴木、師岡、乃至《ないし》山崎ではなくて、眞志屋十二代清常であつた。鈴木、師岡は伊澤の刀自や師岡未亡人の言《こと》の如く、壽阿彌の妹の子であらう。山崎は稍《やゝ》疑はしい。案ずるに偶然師岡氏と同稱であつた山崎は、某代五郎作の實兄で、鈴木と師岡とは義兄としてこれを遇してゐたのではなからうか。清常に至つては壽阿彌がこれを謂つて姪《てつ》となす所以《ゆゑん》を審《つまびらか》にすることが出來ない。

     二十三

 わたくしは師岡未亡人に、壽阿彌の妹の子が二人共|蒔繪《まきゑ》をしたことを聞いた。しかし先づ蒔繪を學んだのは兄鈴木で、師岡は鈴木の傍《かたはら》にあつてその爲《な》す所に傚《なら》つたのださうである。
 わたくしは又伊澤の刀自に、其父|榛軒《しんけん》が壽阿彌の姪《をひ》をして櫛《くし》に蒔繪せしめたことを聞いた。此蒔繪師の號はすゐさいであつたさうである。
 師岡未亡人はすゐさいの名を識らない。夫師岡が此號を用ゐたなら、識らぬ筈が無い。そこでわたくしは蒔繪師すゐさいは鈴木であらうと推測した。
 此推測は當つたらしい。淺井平八郎さんは眞志屋の遺物の中から、寫本二種を選《え》り出して持つて來た。其一は蒔繪の圖案を集めたもので、西郭、溪雲、北可、玉燕女《ぎよくえんぢよ》等と署した畫が貼《は》り込んである。表紙の表には「畫本」と題し、裏には通二丁目山本と書して塗抹《とまつ》し、「壽哉《じゆさい》所藏」と書してある。其二は浮世繪師の名を年代順に列記し、これに略傳を附したもので、末に狩野家《かのけ》數世の印譜を寫して添へてある。表紙の表には「古今先生記」と題し、裏には「嘉永四|辛亥《しんがい》春」と書し、其下に「鈴木壽哉」の印がある。伊澤榛軒のために櫛に蒔繪したのが、此鈴木壽哉であつたことは、殆ど疑を容れない。壽哉は或はしうさいなどと訓《よ》ませてゐたので、すゐさいと聞き錯《あやま》られたかも知れない。
 初めわたくしは壽阿彌の墓を討《もと》めに昌林院へ往つた。そして昌林院の住職に由つて師岡氏未亡人を知り、未亡人に由つて眞志屋文書を見るたつきを得た。然るにわたくしは曾《かつ》て昌林院に至りし日雨に阻《さまた》げられて墓に詣《まう》でなかつた。わたくしは平八郎さんが來た時、これに告ぐるに往訪に意あることを以てした。其時平八郎さんはわたくしに意外な事を語つた。それはかうである。近頃昌林院は墓地を整理するに當つて、墓石の一部を傳通院内に移し、爾餘のものは別に處分した。そして壽阿彌の墓は傳通院に移された墓石中には無かつた。師岡氏未亡人は忌日に參詣して、壽阿彌の墓の失踪《しつそう》を悲み、寺僧に其所在を問うて已《や》まなかつた。寺僧は資を捐《す》てて新に壽阿彌の石を立てた。今傳通院にあるものが即是である。未亡人石は毎《つね》に云つてゐる。「原《もと》の壽阿彌のお墓は硯《すゞり》のやうな、綺麗な石であつたのに、今のお墓はなんと云ふ見苦しい石だらう。」
 わたくしは曩《さき》に寺僧の言《こと》を聞いた時、壽阿彌が幸にして盛世|碑碣《ひけつ》の厄《やく》を免れたことを喜んだ。然るに當時寺僧は實を以てわたくしに告げなかつたのである。壽阿彌の墓は香華《かうげ》未だ絶えざるに厄に罹《かゝ》つて、後僅に不完全なる代償を得たのである。

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