つたものとしてある。寛政八年には壽阿彌は二十八歳になつてゐた。
 壽阿彌は本《もと》江間氏で、其家は遠江國《とほたふみのくに》濱名郡舞坂から出てゐる。父は利右衞門、法諡《ほふし》頓譽淨岸居士《とんよじやうがんこじ》である。過去帳の一本は此人を以て十一代目五郎作としてゐるが、配偶其他卑屬を載せてゐない。此人に妹があり、姪《をひ》があるとしても、此人と彼等とが血統上いかにして眞志屋の西村氏と連繋してゐるかは不明である。しかし此連繋は恐らくは此人の尊屬|姻戚《いんせき》の上に存するのであらう。
 壽阿彌の五郎作は文政五年に出家した。これは手入の少い過去帳の空白に、後に加へた文と、過去帳一本の八日の下《もと》に記した文とを以つて證することが出來る。前者には、「延譽壽阿彌、俗名五郎作、文政五年壬午十月於淺草日輪寺出家」と記してあり、後者は「光譽壽阿彌陀佛、十一代目五郎作、實《じつは》江間利右衞門男、文政五年壬午十月於日輪寺出家」と記してある。後者は八日の條に出てゐるから、落飾の日は文政五年十月八日である。
 わたくしは壽阿彌の手紙を讀んで、壽阿彌は姪《をひ》に菓子店を讓つて出家したらしいと推測し、又師岡未亡人の言《こと》に據つて、此姪を山崎某であらうと推測した。後に眞志屋文書を見るに及んで、新に壽阿彌の姪一人の名を發見した。此姪は分明に五郎兵衞と稱して眞志屋を繼承し、尋《つい》で壽阿彌に先だつて歿したのである。
 壽阿彌が自筆の西山遺事の書後に、「姪眞志屋五郎兵衞清常、藏西山遺事一部、其書誤脱|不爲不多《おほからずとなさず》、今謹考數本、校訂|以貽後生《もつてこうせいにのこす》」と云ひ、「文政五年秋八月、眞志屋五郎作秋邦謹書」と署してある。此年月は壽阿彌が剃髮する二月前である。これに由《よ》つて觀れば、壽阿彌が將《まさ》に出家せむとして、戸主たる姪清常のために此文を作つたことは明である。わたくしは少しく推測を加へて、此を以つて十一代の五郎作即ち壽阿彌が十二代の五郎兵衞清常のために書いたものと見たい。
 此清常は過去帳の一本に載せてあり、又壽阿彌の位牌の左邊に「戒譽西村清常居士、文政十三年|庚寅《かういん》十二月十二日」と記してある。文政十三年は即ち天保元年である。清常は壽阿彌が出家した文政五年の後八年、眞志屋の火災に遇《あ》つた文政十年の後三年、壽阿彌が※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》に與ふる書を作つた文政十一年の後二年にして歿した。書中の所謂「愚姪」が此清常であることは、殆ど疑を容れない。しかし此人と石の夫師岡久次郎の兄事した山崎某とは別人で、山崎某は過去帳の一本に「清譽凉風居士、文久元|酉年《とりのとし》七月二十四日、五郎作兄、行年四十五歳」と記してあるのが、即《すなはち》是《これ》であらう。果して然らば山崎は恐らくは鈴木と師岡との實兄ではあるまい。所謂「五郎作兄」は年齡より推すに、壽阿彌の兄を謂ふのでないことは勿論であるが、未だ考へられない。
 清常の歿するに先つこと一年、文政十二年に、水戸家は烈公|齊昭《なりあき》の世となつた。

     二十二

 清常より後の眞志屋の歴史は愈《いよ/\》模糊《もこ》として來る。しかし大體を論ずれば眞志屋は既に衰替の期に入つてゐると謂ふことが出來る。眞志屋は自ら支《さゝ》ふること能《あた》はざるがために、人の廡下《ぶか》に倚《よ》つた。初は「麹町|二本《ふたもと》傳次|方江《かたへ》同居」と云ふことになり、後「傳次不勝手に付金澤丹後方江|又候《またぞろ》同居」と云ふことになつた。
 眞志屋文書に文化以後の書留と覺しき一册子があるが、惜むらくはその載する所の沙汰書《さたしよ》、伺書《うかがひしよ》、願書《ねがひしよ》等には多く年月日が闕《か》けてゐる。
 此等の文に據るに、家道衰微の原因として、表向申し立ててあるのは火災である。「類燒後御菓子製所大破に相成」云々と云つてある。此火災は壽阿彌の手紙にある「類燒」と同一で、文政十年の出來事であつたのだらう。
 さて二本傳次の同居人であつた當時の眞志屋五郎兵衞は、病に依つて二本氏の族人をして家を嗣《つ》がしめたらしい。年月日を闕《か》いた願書に、「願之上親類麹町二本傳次方江同居仕御用向|無滯《とゞこほりなく》相勤候處、當夏中より中風相煩歩行相成兼其上|甥《をひ》鎌作《かまさく》儀病身に付(中略)右傳次方私從弟定五郎と申者江跡式相續|爲仕度《つかまつらせたく》(中略)奉願候、尤《もつとも》從弟儀|未《いまだ》若年に御座候に付右傳次儀後見仕」云々と云つてある。署名者は眞志屋五郎兵衞、二本傳次の二人である。此願は定て聞き屆けられたであらう。
 しかし十二代清常と此定五郎との接續が不明である。中風になつた五郎兵衞が二十歳で歿
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